『アバター』のビジュアルなんぞメじゃないのが昨年公開の『劔岳 点の記』、70代のキャメラマン木村大作の第一作だ。
『アバター』のビジュアルがいくら迫力あろうと、しょせんはCG。『劔岳 点の記』には『アバター』では感じられない圧倒的な空気感が表現されている。
木村大作といえば、強面映画人として名高い。現場で怒鳴りまくって監督より目立っているとか、気に食わない外様のスタッフには荷重(ライトを置く吊り足場)からライトをお見舞いするといわれる太秦撮影所の照明部を制圧したとか。本当かどうか知りませんが。
現場でウルサいためか仕事が来なくなり、タクシー会社の面接を受けたら「あなたは人の言うことを聞かなそうだから、この仕事は無理」と言われた木村大作である。
『ディアドクター』とは違い、ダメもとで出かけた。登山記録に忠実に同じ季節の同じ時間に撮影しただの、スタッフが落石で怪我しただの、感心しない噂を聞いていたから、<映像の物見遊山>でも御の字かな、と。
ところが嬉しい誤算。壮大な映像とシンプルながら誠実なドラマ作りで感動させる、木村大作にしか作り得ない秀作だった。キャメラマン木村大作の作品は『八甲田山』『海峡』『駅 ステーション』『復活の日』しか観ていないが、本作の方が優れていると思う。
明治39年、日本地図の最後の空白となった劔岳山頂に観測ポイントを設置すべく初登頂を目指した陸軍測量技師と案内人たちの苦闘を描いた作品。
冒頭、陸軍の司令部。木村大作にしてみれば『八甲田山』で経験しているので、構図やムード作りはお手の物。感心したのは、國村隼、笹野高士、小澤征悦のキャスティング。3人の面構えもよく、髪型や立ち居振る舞いがちゃんと軍人になっている。「木村大作、やるな!」と、なかなかの滑り出し。
続いて宮崎あおいが夫浅野忠信を待つ神田橋の停車場。「ザッザッ」という音に妻が振り向くと、洋館バックの軍隊の行進を望遠レンズで捉えたフレームに、電車がチンチンと滑り込んでくる。映像と音で瞬時に<明治の東京の雰囲気>を理解させる素晴しいショットだ。広くもない明治村のロケセットに、人物や電車を配置した構図とそれぞれの動きが見事。「これは一流監督の仕事ではないか!」と驚く。
ビバルディが流れる新婚家庭も、浅野宮崎が自然で品があって巧いし、髪を下ろした宮崎の色っぽいこと。
浅野が富山に向かう。煙を吐き出す蒸気機関車の大ロングショットに、森を映した車窓の浅野。これだけで、都会を離れ田舎に近づいていくムードを表現している。
富山駅で待っていた香川照之と歩いて山麓に向かう道中で、いよいよ名キャメラマンが本領を発揮し出す。弁当を使うあぜ道のロングショット、光線とアングルも決まって、トンビの鳴き声が出す芸の細かさ。
洋画邦画を問わず最近これほど画面の隅々にまで、音響効果も含めて神経の行き届いた映画を知らない。構図や光線が情感をいかに雄弁に伝えるか、お手本のようである。霧をバックにした行者、シルエットの富士山、夜明けの水田など忘れがたい映像が次々と展開する。
しかも画づくりが秀逸なだけでなく、映像でストーリーを展開する<コンテニュティ:いわゆるコンテ>が超一流なのだ。
香川が案内して下見の登山になる。大きな滝を過ぎ、劔岳周辺の山々が望む高地まで来る。雲海に沈む夕陽で、観ている者は大自然の深奥に入ったムードを実感していることに気づく。
かつての映画名人はみなさん、映像と音で観客を映画の舞台へ誘うテクニックを見せてくれた。
志村喬の杣売りが森の奥深く入っていく『羅生門』、ベドウィンに案内され砂漠の深奥を入っていく『アラビアのロレンス』、逢い引きに急ぐ男の視点でキャメラが沼地を分け入る『サンライズ』、遠距離バスの乗客と風景、ラジオから聞こえるニューヨークの番組で、田舎からはるばる大都会に到着した『真夜中のカーボーイ』もそうでした。
下見した結果、登頂困難の報告に、軍はメンツのため、西洋の最新登山技術を身につけた山岳会に遅れをとるなと厳命、浅野は不利な戦いに挑まざるを得なくなる。
後半は、賃金に不満な強力や、エリート意識剥き出しの松田龍平、村の掟を破る香川を嫌う息子、山岳会の登場などのドラマが、登頂の挑戦に絡みながら進むが、コンテの的確さは最後まで崩れない。
クライマックス、静かな表現ながら、雲の影が飛ぶように横切る氷壁を登る登山隊のロングショットも思わず息をのむ素晴しさ。ラストの落ちもうまい。
この作品は、70歳の木村大作が、本物の創作現場で、体と心で覚えたと云うか、体に染み付けたと云うか、積み重ねた映像表現の本筋を、思うまま大きな画布に描いた映画本来の魅力に満ちた名作だ。
その<本物の創作現場>とは、本人も言っているように、黒澤明の仕事だ。
本作には、黒澤映画の影響がさまざまな形で出ている。
<冒頭、門を入っていく後ろ姿>の『赤ひげ』は冗談として、測量技師の軍人と案内人と言えば『デルス・ウザーラ』だが、浅野の役柄も、アルセーニエフの<物静かで、いざという時はリーダーシップを発揮する>人物像からいただいているようが気がする。賃金に不満な強力に山形民謡でたしなめたり、不平分子の松田にも山形弁でやんわりと諭すのが、それっぽい。
「何をなしたかではなく、何のためにしたか」は『雨上がる』から、というより山本周五郎が好んだ言葉だ。
不利な戦いを、仲間の力を結集させ、出来ることを淡々とひとつづつ実行していくのは島田勘兵衛のようだし、夫婦のテーマがビバルディは『まあだだよ』でしょうか。
などいろいろあるが、それらは表層に見える<黒澤DNA>の刻印のようなもので、木村監督が、黒澤映画をお手本にして目指したのは、感動できる人間の行為を、本物の被写体を揃えて、観客の心に直接届くよう、ありとあらゆる映像表現を駆使した映画づくりだ。だからこそ、お得意な大自然が相手のテーマを選んだのであり、撮影に数年を費やしてきたのである。
日本映画を心から誉めたい気になったのは、この10年で『GO』『パッチギ!』『それでもボクはやってない』など、何年かに1本しかない。だから、香川の息子とのドラマが在り来たりなことや、西洋の最新技術をもっているはずの山岳会が、テントやビスケットを自慢するばかりで、マタギの古来の登山技術(棒一本で滑り降りる)の方がよほど優れていて、何が最新技術なのかよく分からない欠点などは、ニコニコと目をつぶってしまう。それほど、本作は映画本来の魅力に溢れていると思う。
ただ、ラストの<仲間たち>はいただけない。担当も教えてくれなくては、観客に不親切です。
撮影スタッフを、困難な仕事をやり通したことで、作中の人々と重ね合わせているのは分かる。
このタイトルは、初監督作を通して、後輩たちが<本物の映画作り>に辿る付けるよう、木村大作なりの<点の記>を残せたことの、スタッフへ向けた感謝の表現なのでしょうね。
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