2011年10月23日 (日)

『ゴーストライター』 干天の慈雨

 この1年洋邦ロクな作品しか観なかったので、久々に<映画を知っている監督が作ったまっとうな作品>で嬉しくなった。
 『ソーシャル・ネットワーク』は、壮大な最新情報手段に材を取りながら、小生意気な大学生の成金を描いただけで、アカデミー作品賞史上『タイタニック』と並ぶ凡作。
 『英国王のスピーチ』は、しっかりした脚本と芸達者を集めた佳作、『プレシャス』は容貌魁偉の少女が貧困と無知に苦しむ小品だが、それぞれ小粒すぎ。
 邦画ベストワン『悪人』は、地方都市福岡が大都会に見える長崎の青年の過ちを描いているが、主役二人の美男美女がなぜモテないのかさっぱり分からず、殺人容疑者の主人公の唯一の同居人が外出して尾行がつかない、殺された娘の父親が娘を置き去りにした大学生に対する理解できない恨みなど、ドラマとして看過できないヘンところが多すぎ。
 東京公開に遅れること2ヶ月、やっと観た。
 『ゴーストライター』は、イギリスの出版社が大ヒットを目論んで前首相の自伝をゴーストライターに書かせるべくユアン・マクレガーを雇うが、ユアンが前任者の不慮の死の真実に迫るうちにエラいことになってくる・・・。
 不穏な空気を描かせたら昔から天下一品のこの監督のムード作りが最高に楽しい。
 童顔ユアンも中年になってさらによくなっているし、ティモシー・ハットン(『普通の人々』がデビュー作で元デブラ・ウィンガーの旦那)、トム・ウィルキンソン(『フルモンティ』の自殺未遂者)、MI6から首相に出世したピアース・ブロンスナン、ジョンの弟ジム・ベルーシ、渋い役者を揃えているのも嬉しいし、なんと95歳のイーライ・ウォーラックが顔を見せる贅沢さ。
 イーライ・ウォーラックのデビューは56年のエリア・カザン『ベビイ・ドール』だからスゴい。この年になると顔の骨格も変わって来て声を聞くまで判然としなかった。
 お話もイギリスをそのまま日本に置き換えても通用するのが面白くもあり、怖い気もする。でも小泉純一郎だったら、バレバレで意外性もなんともないか。 

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2011年7月31日 (日)

1年ぶり

 なんともはや1年が経ってしまった。名シナリオライターの不思議な魅力を探ってみようと、TSUTAYAで橋本忍作品を探したが福岡では『私は貝になりたい』『首』『仇討』『八つ墓村』もないのだからお手上げ。そのうち書きます。

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2010年7月31日 (土)

『人間革命』 脚本家の異常な愛情、いかにして黒澤組をやめ不条理を愛するようになったのか その1

 あの『人間革命』である。友人が古書店の安売りDVDの山から見つけたので借りた。帰依している訳ではございません、念のため。
 1970年の監督舛田利雄、脚本橋本忍、音楽伊福部昭、主演丹波哲郎、役者も粒ぞろいの堂々たる東宝大作。面白い。前半は実業家の戦後再出発物語、後半は長い時間を使って、説教俳優丹波哲郎が気持ち良さそうに十界論を説く。戸田城聖の開眼した思想がよくわかり、宗教映画としても秀作。大変丁寧に作られており、2時間半を飽きさせない。主人公がなにをしたいのか結局分からなかった『沈まぬ太陽』とは大違い。
 この映画、私の回りでは橋本忍に後年『幻の湖』を作らせたトリガーだと信じられている。数々の名作をものにした知的なシナリオライターを、『シベリア超特急』と双璧をなすカルト駄作の監督に貶めた、橋本の中で<人間革命!>が起きたのだというだ。
 しかし、期待したような毒気妖気のようなものは、全く感じなかった。十界論の地獄や天国のシーンを当時スターの黒沢年男や佐藤允が大真面目に演じているのが変で、笑えるといえば笑える。佐藤允は、ちゃんとサントリー純生を飲んでいた。「若さだよ、山ちゃん」なんてCMありましたっけ。
 では、なぜ橋本は『幻の湖』は作ってしまったのか。物好きにもヒマなときに理由を推測してみました。
 橋本は『羅生門』『生きる』『真昼の暗黒』『切腹』『砂の器』のシナリオライターとして回想形式の名手だと言われている。果たしてそうか。
 デビュー作『羅生門』は、橋本が芥川の『薮の中』を短いシナリオに書いたことから出発している。黒澤から短いと言われ『羅生門』を加えた第二稿は、『羅生門』の老婆を追いはぎにした下人が、『薮の中』の多襄丸になる構成だった。それを黒澤は『羅生門』の下人と『薮の中』の杣売り・僧侶の3人が豪雨の羅生門で強姦殺人事件を検証する設定に書き直した。『羅生門』の回想形式は黒澤の発想である。
 橋本は、嘘の証言に翻弄されるドラマより、強姦殺人当事者三人のドラマに心引かれ、赤ん坊をめぐる葛藤を「浮いている」と貶している。
 『羅生門』の傑作たる所以は、強盗、武士、妻、杣売りらの虚言のままに一人称の映像として各人の感情を乗せて展開していき、人心荒廃した末世で人間の集団が生き延びていくためには、人の本性に備わっている善に賭けるしか方法はないという展開にしたこと。
 橋本が2006年に出した『複眼の映像』を読んで一番驚いたのはここ。橋本は回想形式のアイディアに感嘆するものの、この傑作の理由を支持していないのだ。
 続く『生きる』の回想アイディアも黒澤から。公園を作る決心をした市民課長の公園完成まで、時系列通りのドラマをありきたりと考えた黒澤が、師匠山本嘉次郎が誉めた随筆(寺田寅彦?)から発想した。課長の死後、職場の同僚の回想にすることで、課長の変身のアクセントも際立つし、観客に考えさせる力も強くなっている。『羅生門』『生きる』に関しては、時系列の異なるシーンを対比させるドラマに興味があったのは黒澤の方だ。
 『真昼の暗黒』はミステリーとしてもドラマとしても、シナリオライターの神経が隅々にまで行き届いた、掛け値なしの傑作。制作時係争中の八海事件、戦前を引きずっているかのような警察と裁判のデタラメぶりを告発した。事件の矛盾点を論理的に説明している展開と、巻き込まれた人々の人間描写が簡潔ながら丁寧で素晴しい。
 『切腹』『砂の器』、問題はこの2本。両作とも橋本ドラマの真骨頂として評価は高い。20代の頃名画座で何度か観たが。繰り返し鑑賞するほど感銘は浅くなるばかり。冷静に鑑賞すれば、2本とも実に妙な映画なのだ。
 『切腹』では、仲代の津雲半四郎が井伊家を訪ね、家老三国連太郎の回想が入り、津雲と同じ藩の千々岩求女が切腹する迄は素晴しいが、後半津雲が切腹の場で回想する段になると、面白さが大きく減退する。津雲と求女があまりに身勝手だからだ。
 津雲は元福島藩士で、幕府によって藩がとり潰しになる。時を同じくして親友千々岩陣内が息子求女の将来を津雲に託し病死する。陣内が望んだのは、求女に仕官がかない、武家として家名を継ぐため男の子を設けることだ。では、親友のため津雲はなにをしたか。
 津雲が井伊家の家老に語ったところよると「(浪人しているのは)いろいろ伝手を辿ったかできなかった」。コネをたぐったが就職できませんでした。雄藩井伊家の剣豪丹波哲郎に勝つ腕がありながら、傘張り以外生活や就職のため何かした気配がない。
 松村達雄の商人が、津雲の娘岩下志麻に縁談を持ってくる。商家の養女から千葉の佐倉榊原家の側室に繋がる話で、商人は津雲の就職に有利だと言う。娘を喜んで側室に差し出す武家もあるまいが、すでに22歳の求女に、仕官の道はまったく見えてこない。
 縁談を断った津雲は、娘と求女の婚活に精を出し結婚させて喜ぶ。結局津雲は親友の約束も果たさない勝手な人間にしか描かれていない。
 求女も井伊家の家臣たちに居酒屋かどこかで「井伊家に格好だけ切腹を求めてくれば、就職できるよ」と騙されたのならまだしも、武家のくせにノコノコ切腹を申し出ているのだから、どう料理されようが文句は言えない。元服してからの親代わりであったはずの津雲は、求女にどんな教育をしていたのだろう。
 ところが、映画は仲代の告白の後、丹波ら腕達者が出仕していない謎の明かされ、ラストの大立ち回りに展開すると、事件のインパクトが強いので、津雲や求女のキャラクターに考えを巡らすこともなく最後まで観てしまう。
 名画座やフィルムセンターの昔の観客は正直で、失笑が起きていた。
 介錯人の人選に拘る津雲、早く片付けたい家老が藩士に詰め寄らせ、泡食った津雲は万事休すのはずが、 
 「そっちが無理に斬ろうとすると、こっちだって死ぬ気で歯向かうので、一人二人は犠牲者が出ますぜ」と脅迫すると従う三国。ここでまず場内からクスクス。
 再び座った津雲が、
 「さて、どこまで話したかな」
 クスクスが大きくなる。
 「お話の流れにちょっと無理があるんじゃないの!」と観客は感づいているのである。
 クライマックスの立ち回りで、刺客に囲まれた仲代がいきなり、ウルトラマンのように腕を十字に結ぶと、プッと吹き出す観客が続出。主人公が命を賭けて最後の抵抗を試みる悲痛なシーンでこれだ。
 橋本忍が、滝口康彦の原作からシナリオ化を考えた時、前半の回想ミステリーと井伊藩の剣客たちへの意趣返しから大立ち回りに繋がる構成にもっとも興味を覚え、困窮する浪人のリアルな調査まで、心が動かなかったのではないか。『七人の侍』で、戦国時代の浪人を詳細に調べた人にしては、津雲と求女のキャラクターがあまりにもぞんざいなのだ。
 津雲や釆女の、仕官への努力を含めた侍としての共感できる生き方が、ちゃんと描けていれば本当の傑作になっていただろう。
 『砂の器』、原作者松本清張も自作の映画化で誉めた3作(あとは『張り込み』『黒い画集 あるサラリーマンの証言』、すべて橋本脚本)の中でも大胆な構成が特徴だ。
 国鉄蒲田操作場で発見された他殺体の犯人を探して日本各地を訪ねる前半。手がかりのひとつひとつが論理的に観客に示される過程は素晴しい。いわくありげな作曲家と並行して描かれるのも強引だが面白い。島田陽子が証拠のシャツを始末するのにゴミに出せば済むものを、わざわざ中央線の車窓から捨てるなど考えたら笑ってしまう。
 後半、捜査過程とコンサート、親子の放浪とが、菅野光亮の美しい曲にのってカットバックする。名曲と川又昻撮影の美しい四季折々の風景、丹波哲郎の演説!が三位一体となったパワーに押しまくられて観客は落涙する。
 これもよくよく考えてみると、変なお話。ハンセン病で故郷を追われて放浪の末、父親の病状の悪化で餓死しかねない境遇を親切な巡査に助けられる。父親は遠くの施設へ隔離されたため、巡査は犯人を我が子同然に迎えるが、犯人は家出し都会大阪へ。自転車屋の店員から養子になり芸大へ進学、大物政治家をパトロンに持ち成功への道を歩むが、大成功の直前、突然訪ねた来た恩人の元巡査に「父親に会え」と言われ殺してしまう。
 犯人の回想で放浪と別れの喜怒哀楽はあるものの、なぜ家出したか、なぜ作曲家になったか、なぜ殺したか、恩人をどう思っていたか、回想でいくらでも表現できた筈なのに、肝心な部分が十分に描かれていない。
 ラスト近く、滑舌の悪い森田健作が「本当は犯人は父親に会いたかったんでしょうね」と丹波に聞くと、怒ったように「そんなことは分かっとる!」と、丹波は明らかに犯人に同情したかのような発言をする。この時、刑事は逮捕前で尋問もしていない、推測だけで犯行動機を確信するなんて、『真昼の暗黒』の警察レベルです。
 この作品も『切腹』同様、<構成の魅力ありき>で、ドラマの辻褄が合わないことを、放っておいたまま製作されたと思われる。ストーリーテリングという仕掛けは斬新で面白いが、ドラマの核心がいいかげんなので、鑑賞するごとにアラが目立つわけだ。
 ストーリーテリングは手段であり目的ではない。展開がいくら面白くても、結局お客を感動させるのは、登場人物たちの共感される言動なんですね。
 『生きる』『七人の侍』『真昼の暗黒』の名シナリオライターが、なぜ、このような作品を残すことになったのか、キャリヤと書かれた時代に理由があると思う。(続きます)

 
 
 

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2010年3月 7日 (日)

『ハート・ロッカー』 なんともはや!

 第二次世界大戦時ナチスドイツ占領下のパリで、祖国奪回に命をかけるレジタンスに手を焼くナチの仕事や心情を描いた映画があったとしたら? そんな狂気としか言いようのないテーマが、21世紀のバクダッドを舞台に展開しているのが本作。

 私の大学時代、牛原虚彦という先生がいた。この方日本映画草創期の監督で、70代で足がお悪く松葉杖を使っていたが、ある時最新式のパイプの松葉杖で教室に現われ嬉しそうに、
「ジャッカルと同じでございます」と笑った。
 つまり、『ジャッカルの日』でジャッカルが傷痍軍人に成り済ました際使ったのと同じ松葉杖を買って学生に自慢したのだ。この粋な方が「映画には、極たまに<あってはならない作品>がある」とおっしゃっていた。<存在さえしない方がよい>が狂ったような価値観の映画という意味だと記憶しているが、『ハート・ロッカー』はまさにそうしたジャンルのものだ。

 『告発のとき』や『リダクティッド 真実の価値』と対極にある、このような愚劣な映画を高く評価する賞や業界があるとしたら、早いとこ消え去った方が宜しい。
 

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2010年3月 6日 (土)

『劔岳 点の記』 監督木村大作に乾杯!

 『アバター』のビジュアルなんぞメじゃないのが昨年公開の『劔岳 点の記』、70代のキャメラマン木村大作の第一作だ。
 『アバター』のビジュアルがいくら迫力あろうと、しょせんはCG。『劔岳 点の記』には『アバター』では感じられない圧倒的な空気感が表現されている。
 木村大作といえば、強面映画人として名高い。現場で怒鳴りまくって監督より目立っているとか、気に食わない外様のスタッフには荷重(ライトを置く吊り足場)からライトをお見舞いするといわれる太秦撮影所の照明部を制圧したとか。本当かどうか知りませんが。
 現場でウルサいためか仕事が来なくなり、タクシー会社の面接を受けたら「あなたは人の言うことを聞かなそうだから、この仕事は無理」と言われた木村大作である。
 『ディアドクター』とは違い、ダメもとで出かけた。登山記録に忠実に同じ季節の同じ時間に撮影しただの、スタッフが落石で怪我しただの、感心しない噂を聞いていたから、<映像の物見遊山>でも御の字かな、と。
 ところが嬉しい誤算。壮大な映像とシンプルながら誠実なドラマ作りで感動させる、木村大作にしか作り得ない秀作だった。キャメラマン木村大作の作品は『八甲田山』『海峡』『駅 ステーション』『復活の日』しか観ていないが、本作の方が優れていると思う。

 明治39年、日本地図の最後の空白となった劔岳山頂に観測ポイントを設置すべく初登頂を目指した陸軍測量技師と案内人たちの苦闘を描いた作品。
 冒頭、陸軍の司令部。木村大作にしてみれば『八甲田山』で経験しているので、構図やムード作りはお手の物。感心したのは、國村隼、笹野高士、小澤征悦のキャスティング。3人の面構えもよく、髪型や立ち居振る舞いがちゃんと軍人になっている。「木村大作、やるな!」と、なかなかの滑り出し。
 続いて宮崎あおいが夫浅野忠信を待つ神田橋の停車場。「ザッザッ」という音に妻が振り向くと、洋館バックの軍隊の行進を望遠レンズで捉えたフレームに、電車がチンチンと滑り込んでくる。映像と音で瞬時に<明治の東京の雰囲気>を理解させる素晴しいショットだ。広くもない明治村のロケセットに、人物や電車を配置した構図とそれぞれの動きが見事。「これは一流監督の仕事ではないか!」と驚く。
 ビバルディが流れる新婚家庭も、浅野宮崎が自然で品があって巧いし、髪を下ろした宮崎の色っぽいこと。
 浅野が富山に向かう。煙を吐き出す蒸気機関車の大ロングショットに、森を映した車窓の浅野。これだけで、都会を離れ田舎に近づいていくムードを表現している。
 富山駅で待っていた香川照之と歩いて山麓に向かう道中で、いよいよ名キャメラマンが本領を発揮し出す。弁当を使うあぜ道のロングショット、光線とアングルも決まって、トンビの鳴き声が出す芸の細かさ。
 洋画邦画を問わず最近これほど画面の隅々にまで、音響効果も含めて神経の行き届いた映画を知らない。構図や光線が情感をいかに雄弁に伝えるか、お手本のようである。霧をバックにした行者、シルエットの富士山、夜明けの水田など忘れがたい映像が次々と展開する。
 しかも画づくりが秀逸なだけでなく、映像でストーリーを展開する<コンテニュティ:いわゆるコンテ>が超一流なのだ。
 香川が案内して下見の登山になる。大きな滝を過ぎ、劔岳周辺の山々が望む高地まで来る。雲海に沈む夕陽で、観ている者は大自然の深奥に入ったムードを実感していることに気づく。
 かつての映画名人はみなさん、映像と音で観客を映画の舞台へ誘うテクニックを見せてくれた。
 志村喬の杣売りが森の奥深く入っていく『羅生門』、ベドウィンに案内され砂漠の深奥を入っていく『アラビアのロレンス』、逢い引きに急ぐ男の視点でキャメラが沼地を分け入る『サンライズ』、遠距離バスの乗客と風景、ラジオから聞こえるニューヨークの番組で、田舎からはるばる大都会に到着した『真夜中のカーボーイ』もそうでした。

 下見した結果、登頂困難の報告に、軍はメンツのため、西洋の最新登山技術を身につけた山岳会に遅れをとるなと厳命、浅野は不利な戦いに挑まざるを得なくなる。
 後半は、賃金に不満な強力や、エリート意識剥き出しの松田龍平、村の掟を破る香川を嫌う息子、山岳会の登場などのドラマが、登頂の挑戦に絡みながら進むが、コンテの的確さは最後まで崩れない。
 クライマックス、静かな表現ながら、雲の影が飛ぶように横切る氷壁を登る登山隊のロングショットも思わず息をのむ素晴しさ。ラストの落ちもうまい。

 この作品は、70歳の木村大作が、本物の創作現場で、体と心で覚えたと云うか、体に染み付けたと云うか、積み重ねた映像表現の本筋を、思うまま大きな画布に描いた映画本来の魅力に満ちた名作だ。
 その<本物の創作現場>とは、本人も言っているように、黒澤明の仕事だ。

 本作には、黒澤映画の影響がさまざまな形で出ている。
 <冒頭、門を入っていく後ろ姿>の『赤ひげ』は冗談として、測量技師の軍人と案内人と言えば『デルス・ウザーラ』だが、浅野の役柄も、アルセーニエフの<物静かで、いざという時はリーダーシップを発揮する>人物像からいただいているようが気がする。賃金に不満な強力に山形民謡でたしなめたり、不平分子の松田にも山形弁でやんわりと諭すのが、それっぽい。
 「何をなしたかではなく、何のためにしたか」は『雨上がる』から、というより山本周五郎が好んだ言葉だ。
 不利な戦いを、仲間の力を結集させ、出来ることを淡々とひとつづつ実行していくのは島田勘兵衛のようだし、夫婦のテーマがビバルディは『まあだだよ』でしょうか。
 などいろいろあるが、それらは表層に見える<黒澤DNA>の刻印のようなもので、木村監督が、黒澤映画をお手本にして目指したのは、感動できる人間の行為を、本物の被写体を揃えて、観客の心に直接届くよう、ありとあらゆる映像表現を駆使した映画づくりだ。だからこそ、お得意な大自然が相手のテーマを選んだのであり、撮影に数年を費やしてきたのである。

 日本映画を心から誉めたい気になったのは、この10年で『GO』『パッチギ!』『それでもボクはやってない』など、何年かに1本しかない。だから、香川の息子とのドラマが在り来たりなことや、西洋の最新技術をもっているはずの山岳会が、テントやビスケットを自慢するばかりで、マタギの古来の登山技術(棒一本で滑り降りる)の方がよほど優れていて、何が最新技術なのかよく分からない欠点などは、ニコニコと目をつぶってしまう。それほど、本作は映画本来の魅力に溢れていると思う。

 ただ、ラストの<仲間たち>はいただけない。担当も教えてくれなくては、観客に不親切です。
 撮影スタッフを、困難な仕事をやり通したことで、作中の人々と重ね合わせているのは分かる。
 このタイトルは、初監督作を通して、後輩たちが<本物の映画作り>に辿る付けるよう、木村大作なりの<点の記>を残せたことの、スタッフへ向けた感謝の表現なのでしょうね。

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2010年2月26日 (金)

三鷹オスカーならどうする?

 1990年12月30日、三鷹オスカー最後の夜。私もそこにいた。深夜『ロッキー・ホラー・ショー』を、『フェーム』のように<正しい作法>で鑑賞させていただいたことは、今でも心の財産だ。
三鷹オスカー復活、例え1日とはいえ、映画ファンとしては大変嬉しいニュース。
  
 70年代後半から80年代、東京の名画座には映画を観ることの楽しさを教えてもらった。文芸座、文芸座地下、高田馬場パール座、八重洲スター座、銀座並木座などなど。中でも三鷹オスカーは特異な存在で、ラインアップがなんとも凄かった。
 まず、かかる映画の幅がとてつもなく広かった。黒澤、小津、キューブリックらの監督特集など正統派ファン向けがメインだが、『ロッキー・ホラー・ショー』『ファントム オブ パラダイス』『リトルショップ・オブ・ホラーズ』、あるいは『レッド・ツェッペリン 狂熱のライブ』でロックファンを惹き付けると思えば、エロチック路線『青い体験』3本立てで大ヒットを記録したりした。
 レパートリーの充実さだけでも、名画座として大変立派なのだが、たまに映画ファンの遊び心をくすぐる仕掛けをしてきた。私が知っているだけで、こんな組合せがあった。
 『狼男アメリカン』『ドラキュラ都へ行く』『ヤング・フランケンシュタイン』の<怪物くん3本立て>。
 『クレイマー、クレイマー』『チャンプ』『真夜中のカーボーイ』には、思わず唸ってしまった。野暮を承知でいうと、『クレイマー』はニューヨークが舞台のダスティン・ホフマンと一人息子の話、『チャンプ』はフロリダが舞台のジョン・ヴォイトと一人息子の話、『真夜中』はホフマンとヴォイトがニューヨークからフロリダに向かう話。尻取りとも言うべき3本になっていた。併映する作品によって、秀作に別の角度から光が当てられ、思いもよらなかった奥深い楽しみ方を教えてくれた。
 以来、ビリー・ワイルダーの座右の銘ではないが、時々<三鷹オスカーだったら、どんな組合せにするだろう>と、頭の中で勝手に2本立てや3本立て作っては、一人贅にいるのを楽しみにしている。
 『隠し砦の三悪人』や『椿三十郎』の、オリジナルとリメイクの2本立てなんてどうだろう。スクリーンでオリジナルの迫力を楽しんだ後、リメイクを観る。おそらく場内は嘲笑と爆笑で大いに湧くだろう。『幻の湖』のような楽しみ方ができる筈だ。
 『インビクタス 負けざる者たち』、普通の名画座なら『マンデラの名もなき看守』に『ツォツィ』か『遠い夜明け』で南ア特集、あるいは『勝利への脱出』『ロンゲスト・ヤード』のスポーツ物で組むだろう。だが、この名画座は一筋縄ではいかない。『ショーシャンクの空に』『ブルベイカー』(モーガン・フリーマンが囚人役)くらいやりかねないのが三鷹オスカーだった。調達人レッドがシャバに出たら大統領になっていたという錯覚を観客にプレゼントする意図で。
 
団塊の世代以上の人々に、映画をよく理解できる、いわゆる見巧者が多いと思う。70年代まで日本全国のそこそこの都市には必ずあった名画座で、古今東西の名作を鑑賞できたからだ。
 映画は映画館でなければ、真価は理解できない。いつの時代でも優れた監督は、映画館で上映されることを計算にいれて演出している。観客の中にいる見巧者に、笑うポイントなどを教えてもらう効果もある。そのような経験を重ねると、映画には実に多様な楽しみ方があるのだと分かってくる。だから、監督や役者、テーマ別に2本立て3本だてを安い料金で観られる名画座ほど、映画の奥深い魅力を楽しめる場は他にない。
 封切館で高い料金を払っても入れ替え制で一回しか鑑賞できない上、名画座が絶滅寸前の今、若い世代がお気の毒でしようがない。ネットで「『七人の侍』に大感動、一度スクリーンで観てみたい」のような嘆きに何度接したことか。

 常設館は無理でも定期的にやってください。家庭で観るDVDは、流行の言葉で言えば<アバター>のようなもので仮の姿、<映画の本当の姿>は映画館にしか存在しないことを実証していただくためにも、今こそ三鷹オスカーは必要です。 

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2010年2月 5日 (金)

『アバター』 ビジュアル120点ドラマ50点  

♪アバターのラバ(lover)さん酋長の娘、体はデカイがパンドラじゃ美人

 身の丈3メートルのナビ族が暮らすパンドラ星(土星の衛星)に眠る地下資源を略奪すべく、意識?で遠隔操作できるバイオロボットをアバター(分身)として潜り込ませるが、酋長の娘に恋したことから正義に目覚め、同胞に弓引く決意をする・・・。
 これはもう西部劇ですね。最近では『ラストサムライ』でも使われたプロット。荒馬ならぬ鳥獣乗りを通過儀礼にアダプテーションたりして。友人は宇宙版『ソルジャー・ブルー』と。言い得て妙。
 キャメロンの新作『アバター』は、『タイタニック』同様、まぎれもない商売上手なキャメロンブランド。
 一番の売りはCG。手塚治虫が劇画タッチになったときのような顔のナビ族や、太古を思わせる森林やクリーチャー(少し悪趣味)、ビジュアルと動きは、時間と手間を存分にかけただけあって素晴しい。この<時間と手間をかけて>が肝心なところで、空前のヒット作をつくった人だからこそ可能になった贅沢だろう。
 日本の観客なら察しが付くように、パンドラ星とナビ族のビジュアルコンセプトを宮崎アニメからパクっている。臆面もないというか、商魂逞しいというか。ただ、宮崎アニメが嫌いな私としては、それがとても面白かった。
 宮崎アニメに食指が動かないのは、<実写にしたいのに出来ないのでアニメにしました>的な印象が拭えないからである。キャラクターの顔にしても個性がないし、動きもアニメ特有の面白さを感じない。だから、巨大なオオカミのような獣の背に乗って森を駆け抜ける酋長の娘や、鳥獣の飛行、空中に伸びる岩なんぞを眺めながら、「宮崎駿はこれがやりたかったんだろうなあ」と。
 米軍を侵略軍として描いたのも、商売上手の面目躍如。『エイリアン2』で海兵隊を大活躍させたキャメロンが、愛国者の宗旨を変えたのではなく、少しくらいアメリカの観客が嫌な感じを受けようと、世界中で<悪役米軍>が新鮮にうつることを計算に入れているのだ。国内でクレームを浴びることさえ期待したのかも知れない。スキャンダルが強力なPRになることくらい、先刻ご承知なのだから。
 それで作品に感銘を受けたかといえば別問題で、『タイタニック』同様、ビジュアル120点ドラマ50点。
 『タイタニック』公開時、あるアメリカの評論家は「あれだけ製作費がありながら、なぜプロのシナリオライターを雇わなかったのか」と皮肉ったように、キャメロンが書いたドラマがいいかげん。
 例の名場面と言われる舳先のツーショット。立ち入り禁止エリアであるばかりか操舵室から丸見えの場所で、あれはいけません。見張りの船員を買収したとか、設定を観客に説得していただかなくては。レオ様が命に替えて助けたヒロインが、思い出を胸にその後の80年の人生を寡婦で生き抜いたのなら分かるが、別の男と結婚して飛行機を操縦したりして面白可笑しく生きていたみたいで、とても白状な女になっている。
 今回の場合、恋人の正体が操りロボットの上、中身は地球人と判明して、ヒロインはなぜ恋心が続くのかなど肝心な点がよくわからない。
 だが、シナリオの弱点もなんのその、ビジュアルの迫力で押切る強引さがキャメロン印です。
 唯一の傑作は『エイリアン2』と信じる当方なので、シガニー嬢にもっと見せ場が欲しかった。せっかくパワーローダーが出てきたのだから、「若い頃、名手だったのよ」と、ヒロインといっしょにヒーローの助太刀をしなくちゃね。ただ180㎝の彼女がナビ族に抱かれると小柄になる図は面白かった。
 さてキャメロン氏。アバターの続編をつくるらしいが、腕のたつシナリオライターを雇って欲しい。1978年のリチャード・ドナーの『スーパーマン』なんぞは、マリオ・プーゾ(『ゴッドファーザー』)とロバート・ベントン(『クレイマークレイマー』『プレイス・イン・ザ・ハート』)が参加しているから、マンガが格調高い素晴しいファンタジーになったのです。でないと、せっかくのビジュアルが泣きます。
 何気なくIMDbを覗いて驚いた。キャメロンの企画に、ふたつの日本の地名があるではないか!
 『The Last Train from Hiroshima:The Survivors Look Back』
 『Nagasaki Deadlines』
 キャメロンは被曝の地獄図をお得意CGで再現しようとしているのだろうか? 戦争加害意識より被害心情が優先する日本が世界興行収入の大きなパートを握っていることを見透かした<商売人キャメロン>ここにあり。

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2010年2月 4日 (木)

『ディアドクター』 自然さとリアルさとは違います

 キネマ旬報ベストワンだというので期待したが無駄でした。
 無医村に首尾よく紛れ込んだ偽医者が村人に絶賛される医者ぶりを発揮したものの、正体がバレそうになり遁走。事件を捜査するなかで真相が浮かび上がるというお話。
 何が気に入らないといって、鶴瓶の偽医者が、年収2000万円のためと分るものの、どんな人柄で、どういう方法で無医村に潜り込んだか、周囲を騙せる医療技術がどの程度なのか、さっぱり分からないままエンドマークが出ること。
 失踪前と捜査のカットバックの構成だから、捜査シーンが事件を論理的に理解させてくれるのかと思いきや、警官は、妙な説教などして、とても捜査とは思えない言動を繰り返すだけ。
 主人公だけでなく脇の人物像もいいかげん。
 利益優先の俗物院長の親に嫌気がして興味半分で僻地を選んだ研修医は、「信頼されている」体験に働きがいを見つけ、村に残ろうと決心。ところが偽医者が消えると、なぜか研修医も立ち去る。
 都合良くストーリーを展開させたいのか、肝心な情報が証文の出し遅れのような出方をする。
 余貴美子の看護師は、最初、田舎の医院しか経験したことのない看護師かと思えば<救急病院に長い間勤務していた上に、元旦那が医者>という設定が、お話がずいぶん進んだ、気胸の救急患者が来たシーンで、いきなり出てくる。ならば偽医者が来た当初、腕がどの程度か考えると思いますがね。その面白くなりそうなところは見せてくれない。しかも、余貴美子には気胸の応急処置ができるというのだから、ご都合主義もいいところ。
 偽医者があきらかに戸惑っているのを見て、正体がバレない様に指示する。「村人に信頼篤い医者なので、偽と知りつつ共犯に回りました」てなことなのだろうか。偽の疑いが生じたら、まずは応急処置は自らしのいだ後正体を突き止めようとするでしょう。無免許の医療行為の怖さを感じないのだろうか。
 かくのごとくいいかげんなドラマながら、腕のあるカメラマンと巧い役者を揃えているので、一見スムーズなお話のように見える。だが、アクターズスタジオのリー・ストラスバーグが言っていたが<自然な表現とリアルな表現は別>なのだ。
 役者がいくら自然な芝居をしても、ドラマが観客に伝わらないと意味ないです。母(八千草薫)の病状を鶴瓶が娘の医師(井川遥)に説明するシーンなど典型で、何やら薬剤名や医学用語を飛び交っていて理解できない観客は置いてきぼり。なぜ井川遥が納得したのかさっぱり分からない。娘が偽医者の正体を暴き、村人にとっての名医を追い出した結果を「余計なことをして」との反応も、説得力がない。

 話がつまらないから、途中からどうでもいいようなことばかり考えてしまった。香川照之・笹野高史・余貴美子は、いつも同じような使われ方だな、とか。笹野高史・余貴美子が夫婦役をやれば、『上海バンスキング』のパロディになるのに、とか。
 今春の『上海バンスキング』の再演、どうして余貴美子は出ないのだろう。30年ほど前博品館で初めて20代の余貴美子を見て、美しく芝居の巧い人だと感激した思い出がある。50過ぎの中国娘リリーは見物だと思うんだけどなあ。


  
 

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2009年7月31日 (金)

『レスラー』 プロレスが観たくなった! 

 プロレスなんぞというものは長年軽蔑の対象でしかなかった。
 立派な体格の大人が、避ければ避けれられるパンチを受け、大仰にリアクションをしてみせる。みっともない。スポーツの名に値しないプロレスでチャンピオンとは、さらに奇々怪々。まったく興味の向かない世界だった。この映画を観るまでは。

 久しぶりのミック・ロークがオスカー主演賞候補となって有名になったこの作品。まず、プロレス業界(だいぶマイナーらしい)のリアルな描写が、興味津々。
 ホームセンターに<凶器>を買い出しに出かけ、<痛くないのを確認>する。小学校の体育館などレンタル料の安い会場に立つリング、対戦の組み合わせは当日試合直前に決まり、レスラーたちが<段取り>に知恵を絞る。他の組と技がダブルと一方が譲るなんて、爆笑もの。周到なリサーチの賜物ですね。先輩に敬意を持って挨拶に出向いたヒール、「遠慮なしに攻撃してください。私はホッチキスを受けますので」。試合が終わってロッカールーム?に戻って来る先輩をスタンディング・オベーションのレスラーたち。ここらへんで不覚にも少しウルウルきましたね。
 プロレスを嫌悪していた当方のような野暮にも、新しい世界を理解させてくれる。映画のいいところです。プロレスファンの夢を壊す?営業妨害のような映像がテレビでは観られないし。
 
 面白さのポイント、2つ目。本作が優れた中年映画であること。中年映画なんて、カテゴリーがあるかどうか知らないが、『サイドウェイ』のような中年の本音を扱った作品のこと。例えばです。

 余談。名作『サイドウェイ』の版権を日本のプロデューサーが買いリメイクしている。ワインを日本酒に変え、東北あたりの蔵元をめぐるロードムービーにしたかと思いきや、なんとカリフォルニアのワインをめぐる設定をまんま再現するらしい。厚顔無恥。ポール・ジアマッティにカメオ出演を断られたオマケ付き。ポールいわく「ボクのキャリアを貶める」。

 中年を広辞苑でひくと「青年と老年の中間の年頃。四十前後の働き盛りの頃」とある。ええ!、じゃこちらは老年かと思い慌てて大辞林のページをくったら「青年と老年との間の年ごろ。現代では、ふつう40歳代から50歳代にかけてをいう」とあり少し安心した。
 
 
 


 

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2009年6月27日 (土)

『グラン・トリノ』 アメリカも捨てたもんじゃありません

 クリント・イーストウッド監督。優れたシナリオを巧い役者に演じさせ、芝居のよいところだけを奇をてらわずにつなげていく作風は、いいかげんな表現の監督が氾濫する中、大変貴重なものだ。
 しかし、この監督決してテクニックに長けているとも思えないし、リベラルな世界観を持っているわけでもない。正攻法の映画演出を楽しめる、といった程度の気に入り度。感服したのは『ミリオンダラー・ベイビー』だけで、『ミスティックリバー』はミステリーとして楽しめたが、『スペース・カウボーイ』はエエカッコしいでリアリティに欠け、硫黄島2部作は最新テクノロジーのルックだが古くさい戦争映画だし、『チェンジリング』もまあまあ。それで本作もあまり期待していなかった。
 でもこれは傑作です。

 余談。『スペース・カウボーイ』の、イーストウッドそっくりのシカメつらを顔マネして、若い時代のイーストウッドを演じたのは、マギー・スミスとロバート・スティーブンスの息子です。
 マギーは『ミスブロディーの青春』でオスカー受賞、最近ではハリー・ポッターのレギュラー。ロバート・スティーブンスは、ゼフィレッリ『ロミオとジュリエット』の馬上から叱責するベローナの王子様や、ビリー・ワイルダー『シャーロック・ホームズの冒険』のホームズ。地味ですが、名優夫婦です。

 閑話休題。
 まずウォルトの人となりの描写が、役者イーストウッドの独壇場で面白い。無作法な孫や日本車のセールスマンの息子が気に入らず、犬のような唸りを漏らす。『ダーティー・ハリー』の頃からか、嫌悪を顔に貼付けたような表情が、この人の看板のようになった。山田康夫の声が聞えたように感じたら、中年の証拠です。
 隣家の姉弟と親しくなっていく過程も、丹念でストーリーテリングのお手本のよう。少数民族の風俗も興味深い。唾を吐かれても、アメリカ文化が染み付いていたら引き下がるが、新参のアジア人家族にとっては、ヤングギャングを追い払った恩の方が優先する。押し付けがましいお礼のプレゼント作戦が、とまどうウォルトの懐に入るきっかけとしたドラマ設定には唸りました。結局、アジア人への嫌悪が習慣化しているウォルトだが、礼儀正しく対応されると無碍に断れない性格。おそらく、保守的なアメリカ市民に共通する感情なのだろう。
 ウォルトが住む住宅地はすでにアジア系住民が多数派になっているし、銃を振りまわす若いギャングにも手を焼いている。
 ウォルトは、フォードで車を作っていたエンジニア。長年フォードで働いたなら鎌田譿の『自動車絶望工場』のような職場の管理職をやっていたはず、と突っ込むのは野暮というもの。
 そのウォルトは20前後で朝鮮戦争に従軍し勲章を受けている。アジアギャングに「戦争でお前らのような黄色いガキを何人も殺したんだ」と凄むものの、本当の気持ちが違うことは後で分かる。
 復讐を誓う少年に、50年前の武勲が殺人以上のものでない愚行だと告白するウォルト。しかも命令されたわけではなく自発的に殺したことを悩んでいた。私がこの映画を好きになったのは、この戦争観だ。
 59年前の朝鮮戦争ではあるが、<民主主義の国民を共産主義の魔の手から守ってやった>武勲を、後味の悪い殺人だと表明しているのだ。ウォルトが年老いたからか、余命幾ばくもないからか、憎むべき黄色い肌の国民が、実は自分たちと変わらない市民だと気づいたからかは分からない。ただ大スターが主演する映画で、アメリカの聖戦にこんな評価を下した作品はあまりない。
 『ミリオンダラー』の脚本家ポール・ハギスの傑作『告発のとき』では、イラク戦争が両国の子供を死に至らしめているのが実情だと告白したのに近い戦争観が垣間見える。
 そしてなにより素晴しいのは、地味な本作がアメリカでイーストウッド作品として一番ヒットしたこと。それは<民主主義の国民を共産主義の魔の手から守ってやった>武勲を、後味の悪い殺人だという考えに共感したからだ。

 現在外国で起った事件や事故は、リアルタイムで日本にも届く。即時性がテレビニュースの真骨頂だが、事件の本質を捉えているかは別の問題だ。巨大企業がメディアを支えている限り、企業と癒着した政府の価値観が最優先する。
 がんじがらめのニュースでは、アメリカで反戦を訴えれば非国民のレッテルを貼られる風潮がある、一部少数派の人々だけが反戦を訴えていると報道する。それは事実だろうがアメリカのサイレントマジョリティーの届かない声は、戦争をどう考えているのか。ときとして作り物の世界の方が優れた報道性を発揮することがある。『グラン・トリノ』は、そんな希有な映画だと思う。

 一方文句もありますね。
 なぜ、主人公は死に急ぐんですかね。エンターテインメントだからといってもエエカッコし過ぎです。余命が少ないこと、ギャングたちに殺人罪を追わせたいという理由だろうが、もっと現実的な解決策がなかったんですかね。
 最後の主演作なんでしょ。そしたら、出世作『荒野の用心棒』で、ゾンビのように復活し、ジャン・マリア・ボロンテの度肝を抜いた手があるでしょうに。エンジニアなんだから、車のボンネットを細かく刻んで利用しようとは考えなかったのですかね。


 

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