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2008年10月

2008年10月19日 (日)

『シャーロック・ホームズの素敵な挑戦』  アディクション(依存症)映画の傑作

 多忙な時間をやりくりしたのに、映画館でツマラナイ作品を立て続けに観てしまうと、足を運ぶのがおっくうになる。さりとて、レンタルショップに行っても、今観たいレアな作品があまりない。しようがないので、録画したVHSに、なにかめぼしいものはないかと探してみたらありました。『シャーロック・ホームズの素敵な挑戦』、1976年製作。この作品、ホームズものに精通しているシャーロキアンや、長く映画を観てきたファンが喜ぶような極めて趣味性の強い作風で知られる。
 久しぶりに観たが、いやはや凄いものである。これまで感じていた<粋な映画>と云うイメージにおさまらない深さを感じた。アカデミー賞の脚色部門でノミネートされたわけである。

 原作は、ホームズもののパスティッシュ、ニコラス・メイヤー『7%の溶液』、ホームズが溺れていたコカインを意味している。コナン・ドイルがホームズものを書いたのは、この映画のような事実!があったから、本歌から逆算したら映画のような背景が想像できる、と云うお遊び精神から発想されている。
 天才的な推理力と強い正義感、ヴァイオリンやフェンシングの名手にして抜群の行動力で難事件を解決するクールなイメージのホームズを、コカイン中毒で被害妄想に陥っているヨレヨレの姿で登場させ、手に余ったワトソンが、ウィーンのジークムント・フロイトに治療を依頼し、かの地で事件に巻き込まれるというお話。あれだけ数々の難しい事件を背負った生活なら、天才でも少しぐらい精神に変調をきたしていたのでは、と云う着想が抜群。しかも、かのモリアティー教授が貧相な老人で、身に覚えのないことでホームズのストーカー被害に遭っているのだから笑える。
 シャーロキアンたちが、ほくそ笑むクスグリが織り込まれているようだが、当方は『四つの署名』『赤毛連盟』『バスカビル家の犬』『まだらの紐』、モリアティー教授の存在くらいしか知らない。

 スタッフとキャストも凄い。
 撮影オズワルド・モリス、美術ケン・アダム、音楽ジョン・アディソン。さらにオリヴィエとくれば、当時のイギリス映画界屈指の名人たちと云うより、ファンなら72年の『探偵<スルース>』を思い出さない方がおかしい。オズワルド・モリスのクラシカルな色調のルック、キューブリックのリアリズムに応えた『バリー・リンドン』のケン・アダム、『トム・ジョーンズ』や『探偵<スルース>』のクラシカルかつサスペンスフル、しかもコミカルなスコアが楽しいジョン・アディソン。
 監督はハーバート・ロス。振付師から監督になったロスは、粒よりの役者を揃え、うまい芝居を存分に引き出すオーソドックスな演出で、<70年代から80年代のウィリアム・ワイラー>のごとき存在だった。ニール・サイモン作品を多く手がけそのどれもが面白く、『愛と喝采の日々』『マグノリアの花たち』のような名作もある。
 
 キャスティングのトップがフロイト役のアラン・アーキンだから、当時でも配役の渋さは極まったようなもの。今年『リトル・ミス・サンシャイン』でやっと助演オスカーをとったこの人、代表作はキャリアの早い時期に集中している。『アメリカ上陸作戦』でソ連兵を、『愛すれど心さびしく』で聾唖の青年を、『暗くなるまで待って』ではサスペンス映画史上に残る殺人鬼を演じた。鼻にかかったような声色が印象的で、なにを演じても自然で実に巧い役者だ。この作品では、学会から認められず人種差別とも戦いながら、尊敬するホームズの治療に当たる、よき父親・夫で、心優しく行動的な名医を好演している。
 ワトソンにはロバート・デュバル。云わずと知れた名探偵を支える助手役、コルレオーネ家のコンシリオーリを長く勤めた?キャリアに相応しい。カントリー&ウェスタンの歌手役が素晴しい『テンダー・マーシー』(オスカー主演賞受賞)では、歌うばかりか何曲か作詞作曲までやってのけた芸達者。さぞご本人も大人しい性格かと思いきや、マイケル・ムーアがオスカーの授賞式でブッシュを批判した時、「ムーアをブートキャンプ(新兵訓練所)へぶちこんでやれ!」と発言、どちらかと云うとキルゴア大佐(『地獄の黙示録』)のメンタリティに近いのかもしれない。
 ホームズのニコール・ウィリアムソン、『エクスカリバー』くらいしか知らない。友人から教えたもらったのは、カメオ出演した『グッバイガール』。オフ・ブロードウェイの売れない役者リチャード・ドレイファスを映画に勧誘にくるハリウッドの映画監督オリバー・フライ役。
 ヒロインが、古風な顔立ちのバネッサ・レッドグレーブ、翌年『ジュリア』でオスカー助演賞受賞している。尾行するスパイに『キャバレー』で、これまたオスカー助演賞受賞のジョエル・グレイ。『レモ/第一の挑戦』で「ファーストフードとは、<早く死ぬ食べ物>の意味なのじゃよ」なんて説教するコリアン武道のお師匠さんを演じた。モリアティー教授にローレンス・オリヴィエ、ワトソン夫人にはサマンサ『コレクター』エッガーの贅沢さ。
 つまり、観客動員に強くアピールする面々ではないが、クオリティの高い芝居ができる連中ばかりを集め、シェークスピアものでも製作するような大真面目な構えで、このシャレたお話を作った訳である。

 それで、ホームズものや映画に詳しくないと面白くないのかと云えば、とんでもない。
 フロイト博士の部屋を見回して推理し、博士の生い立ちや人となりなどをズバリ言い当てたり、コカイン中毒で死にかけていたホームズが回復し、本来の自分を取り戻して事件を追いかけ、悪党と立ち回りまで演じて解決していく探偵映画の醍醐味を味わえる。それどころか、人間ドラマとしても感動的なストーリーになっている。以前はよく分からなかった<感動的な後味>の理由が、今回観て初めて理解できた。
 ホームズがコカイン中毒から回復していくプロセスが、21世紀の現在も通用する依存症の治療法と同じで、アルコールに限らない依存症の本質を正確に捉えた見識の高さに裏打ちされた物語であるからだ。

 ホームズに呼び出されたワトソンは、かの有名なベーカー街のアパートを訪ねる。食事もろくにとらず部屋に引きこもる名探偵は、友人の顔が信じられなくなっており、モリアティー教授が悪事を続け、命を狙われていると、ひどい不安神経症のホームズ。引き出し一杯のコカインを確認して少し落ち着きを取り戻す。この作品では、このような依存症者を見事に表現する描写が随所に出てくる。
 20年ほど前、テレビコマーシャルで、工藤夕貴が冷蔵庫に並んだ梅酒を前に「こうなっていると安心するの」とあったが、あれと同じ。酒を広告するために依存症者の心理状態をもってくるとは。
 ホームズを迎えたフロイト、「あなたのお兄様や友人は心から心配している。素晴しい頭脳と強い正義感のあなたを尊敬していたのに失望した。自分ではコカイン依存症にかかっていることを知っているくせに、忠実なワトソンを非難している」、本来のシャーロックホームズではない、と話すフロイトにホームズは認めざるを得ない。ここで、依存症治療のスタート地点である<病識を得る>、つまり患者本人が「自分は依存症と云う病にかかっている」ことを自覚する段階にたどり着く。
 「なかなかコカインから抜け出せない」と訴えるホームズに、「わたしはやりとげた。時間もかかるし苦しいが必ずできる」とフロイト。治療者ではなく、立ち直った依存症者の先輩としての顔も見せることによって希望を与える。
 体から薬物が一定濃度以下になると、体は薬物を補充させたくイライラや苦痛を覚える禁断症状・退薬症候が出てくる。ホームズの退薬症候に、フロイトが懐中時計を目の前で振り子にして催眠状態に導くのも面白い。
 眠らせておいて、2人の医師はホームズの荷物にコカインを探す。水を入れた瓶をダミーと見破り、鞄の裏底のスペースに大量のコカインを見つける。薬物を手に入れるためには、悪魔的と表現してよいほど知恵をめぐらせる依存症者の性(さが)がよく出ている。
 体から薬物を抜き取るのが次のステップで、幻聴幻想の中に『赤毛連盟』『バスカビル家の犬』『まだらの紐』が出てくるのがご愛嬌。薬物濃度が低くなると死亡する危険もあり、煩悶する姿は凄まじく英雄的でさえあるとは、ワトソンの医師ならではの感想。
 フロイトはワトソンに「ホームズのコカインは結果であって原因ではない」。アルコール依存症の場合も、酒が原因でさまざまな問題を引き起こすと思われがちだが、飲酒は結果であって飲まざるを得ない心理こそが原因である、そこを解決しないと依存の問題は終わらないことを説明している。
 体から薬物が出たホームズは、ワトソンにこれまでの非礼を詫びる。気持ちも落ち着き、次は体力をつけるために栄養を補給しなければならない。それまでコカイン中心に生活が回っていたので、生活から大きな関心事がなくなり食欲もわかず鬱状態になることもちゃんと表現している。
 依存症者が本当に大変なのはこれからで、一生再び薬物を摂取しない生活を送らなければならないからだ。
 先のことを考えては気力がなくなるので、薬物をとらない一日一日を重ねるしかない。そこで、アルコール依存症者(アル症)の場合、発案されたのが1930年代にアメリカで始まったAA(アルコホリック・アノ二マス)、アル症たちが集まって酒を飲まない日々を続けていくための自助グループである。
 フロイトは、コカイン依存から立ち直った歌姫ローラ・デブローが自殺未遂したことを知るや、ホームズを往診に同行させる。ホームズの心の空虚さを依存症仲間と会わせ、同じ悩みを共有させることで立ち直りの手段とするのは自助グループの狙いと重なる。デブロー嬢が、自らコカインを再摂取したのではなく、何者かに注射され自殺しようとした設定も巧い。再びコカインに溺れる生活ではなく、退薬症候を伴う苦しい身体依存からの脱却に再度挑戦するデブロー、ホームズは感動し事件に立ち向かう意欲を持ち始める。
 事件解決後、催眠状態からホームズがコカインに耽溺したきっけの謎や女性不信のが解ける。フロイトが名探偵となって、天下のシャーロック・ホームズの人生の秘密を解き明かすパスティッシュの名場面となっている。
 ラストは、コカイン依存と戦った依存症者同士のホームズとヒロインの旅立ちで、ロマンスの始まりを暗示して終わる。

 一見古色蒼然とした探偵ミステリーを装いながら、依存症で自分を見失った中年男がトラウマの実態を知り、女性不信を克服して人生の再出発に歩き出すと云う、きわめて現代的なテーマの人間ドラマなのである。だからこそ、お遊び色の濃い物語にもかかわらず、観るものにストーリーの面白さ以上の感慨をもたらしているのではと思う。

 薬物依存を扱った映画は、アル症なら『失われた週末』『酒とバラの日々』『男と女が愛する時』『リービング・ラスベガス』などが思い当たるが、依存症の本質と回復へのステップを正しく描いていることにおいてこの作品には及ばない。依存症映画の傑作でもあるのですね。
 

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2008年10月 2日 (木)

『おくりびと』 日本映画名物<非常識満載>ドラマ

 東京でチェロ奏者として生活していくことが困難になった30代の男が妻と、故郷山形の亡き母が残してくれた廃業した喫茶店兼住居に戻り、納棺師の仕事を通して生や死の尊厳を体験していくお話。
 こう書けば秀作みたいだが、<日本映画によくある非常識>が満載で、せっかくの面白いストーリーが穴だらけのスカスカドラマになっている。

 もらったタコが生きているからと云って、わざわざ海まで返しに行く? もらったのは食べるためだろう、まさか茹でたら赤くなることを大の大人である妻は知らなかったの? それとも、生きているので海に返したら死んでたことが分かり、<死の意味>を主人公が考える体験を描きたかったのか。
 
 <旅のお手伝い>なる納棺師の新聞広告も現実にありそうもない。個人経営の葬儀屋にとって、チラシ広告と云えども大変な出費、こんなお遊びなんかするものか。面接で仕事の内容を知らせないまま採用する方、受ける主人公もバカみたいである。2度ばかり、現場に立ち会っただけで、深夜の自殺者をひとりで片付ける。納棺師に必要な真摯な心構えと熟練した技術を習得する過程がいっさい表現されていない。いつの間にか、一人前になっている不思議さ。この当たりでドラマそのものの真実味がなくなる。
 生きているタコに驚いた妻(芝居する広末涼子を初めて観たが、おぞましいほどヘタ)も妙な人で、絞めた鶏を首がついたままニコニコと食卓に出すかね。旦那の仕事を知り、相手の気持ちを理解しようとするそぶりもなく「汚らわしい」の一言で実家に帰る。戻ってくるや、「お金はいらないから止めて」と、どう生活していくか念頭にない。思考がほとんど小学生レベルである。
 妻をはじめ人物みなさん薄っぺらい。山崎努も、現在の仕事を始めたきっかけが9年前の妻の死らしく、9年のキャリアしかない。60代だろうが、それ以前どのような人生を送っていたのか。
 ラスト、父親を納棺する場で、地元の納棺師が出てきた主人公のリアクションも妙。出てきた時点で説明するでしょ。

 いわゆる<突っ込みどころ>を書き出したらキリがない作品だが、死を扱っていること、広末以外の役者(中でも山田辰夫が抜群)が巧いこと、演出が丁寧なことでなんとか最後まで観ていられた。その程度。

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