ドキュメンタリー

2009年2月 1日 (日)

『ザ・ローリング・ストーンズ シャイン・ア・ライト』 東北新社よ、金返せ!

 KBCシネマで観た。
 1927年トーキー第1作と云われる『ジャズシンガー』以来、ミュージカルや音楽家の伝記映画、ミュージシャンのドキュメンタリーなど音楽の魅力をメインに楽しむあまたの映画が日本で公開されてきたが、外国映画興行史上、最大の汚点、最低の公開の仕方が本作『ザ・ローリング・ストーンズ  シャイン・ア・ライト』である。
 理由は単純、歌曲に歌詞の字幕がついていないからである。
 例えば『雨に唄えば』、ジーン・ケリーが降りしきる雨の中、幸せそうに歩き始め、かの名曲のイントロが流れ出し、『雨に唄えば』の字幕が出る。しかし、続くジーン・ケリーの歌に歌詞がついていないとしたら、どうだろう。恐らく、観客はプリントミスだと考え、映画館に訴えるだろう。ところが映画館のスタッフに「いや、最初からついていないんですよ」と云われたら、どう思うか。私なら配給会社の神経を疑う。いったい、なぜ??
 ミック・ジャガー渾身の歌の訳詞を出さず、歌い終わり「Thank you」と云うと「サンキュー」と字幕で出るバカバカしさ。悪夢である。
 理由として考えられるのは、「ライブでは、字幕がないのだから、それと同じ」あるいは「字幕を出すと、それに眼が向き、せっかくのステージの醍醐味を十分にお楽しみいただけないと考えまして」てなことだ。余計なお世話である。
 歌詞には意味があり、意味を伝えたいから歌うのだ。配給会社が、字幕がビジュアルの邪魔になると考えているのだとすると、翻訳家に対する侮辱になる。
 歌詞の意味を理解しながら、視覚でもパフォーマスを堪能できる映像表現のもっとも素晴しい特性を、あえて捨てているのだ。

 スコセッシは音楽ドキュメンタリーのステージものを監督させたら右に出るものはないほどの逸材で、ドラマを撮るより巧いくらいである。そのスコセッシがこの映画のため、観客の邪魔になるのを承知でクレーンを設け、マルチキャメラを駆使して切り取ったベストのアングルも、色彩映画の保存運動の先頭に立ったことのあるスコセッシらしく、最近ありがちのハイビジョンではなく、予算がかかっても、すべてフィルムで撮影した映像の美しさも、音楽を熟知していないと不可能なくらいの絶妙なモンタージュも、そしてなにより、ストーンズの面々初め、ゲストを含めた当代一流のアーティストたちのパフォーマンスも、日本の観客には歌詞が理解できないので、この作品の神髄は伝わらないのである。
 
 本作は欠陥商品、リコールしてしかるべき。

 かつての名匠たちは、自国以外での自作の公開のされ方を大変気にして、注文を出した。
 デビッド・リーンは『ライアンの娘』の日本題名が当初『夕暮れ』と知り、許さなかった。
 フレッド・ジンネマンは『ジャッカルの日』の日本公開に際して、35ミリを70ミリにブローアップして粒子の荒くなった劇場公開版を、評論家の試写に使わせなかった。もとの35ミリで評価してくれと云う訳だ。
 
 それにしても、日本公開バージョンに歌詞のスーパーがついていないことを、当のストーンズのメンバーや、スコセッシは知っているのだろうか?
 
 

 

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2008年11月14日 (金)

『ブロードウェイ♪ブロードウェイ コーラスラインにかける夢』 堪能しました

 80年頃、淀川長治がニューヨークで『コーラスライン』を観てきて、姿見のような鏡を並べただけのステージで展開するこのミュージカルを絶賛していた。5・6年後リチャード・アッテンボロー監督の映画版が登場、インタビューで浮かび上がるリアルな人間像が面白く佳曲揃い(マービン・ハムリッシュ)、日本ではほとんど無名の役者たちの歌やダンスに感動した。オリジナルの演出を楽しむために、日本青年館で前田美波里が子持ちで盛りの過ぎたシーラ役として出ていた劇団四季のステージも観たが、キャスト全員のダンスと歌唱力(今云うところのパフォーマンス)が見劣りした。
 ミュージカルのバックで踊るラインダンサー8名のオーディションに挑戦する若者像を描くお話。舞台でも映画でも『コーラスライン』を観て登場人物やナンバーをあるていど理解していないと面白さが十分伝わらない一方、知っていれば見所が次から次へと出てきてあっと云う間に90分が終わる。
 原題『Every little step』は、劇中歌『One』の『every little step she takes 』から。合格までものすごい量のステップを踏むわけで、その<ひとステップひとステップ>の意味だろう。
 まず『コーラスライン』のメイキング的面白さ。自らがバックダンサーだったマイケル・ベネットが仲間を集め録音した会話から発想したことに驚いた。ゲイ、母子家庭、父親の浮気、教師によるイジメ、整形手術など生々しい若者たちのスケッチがリアルなわけで、ピュリツァー賞戯曲部門を受賞。
 メイキングとオーディションが平行して描かれる重層的な構成も見所だ。
 オープニングは、自称ダンサーが受験資格で、大勢の中から少しでも才能のありそうなダンサーを選びだすシーンに、「I hope I get it」(この仕事が欲しい)が流れてくる。オリジナルとダブってゾクゾクする。
 それぞれの役が種目だとすると、まるでオリンピックのようなトップを目指す競争も、このドキュメンタリーの醍醐味。ひとつのキャラクターを個性のまったく異なる役者たちがを、同じ歌や芝居を演じる。カットバックで交互に出して、パフォーマンスの違いを楽しめる編集が素晴しい。『カーリー・スー』の主演した女の子以外、一人として知らない役者たちの、パフォーマンスの質の高さと多様な個性、キャラクターと本人の人生がダブル役者もいる。そのモザイク的が描き方も簡潔で効果的。
 初演から関わっている、選ぶ側の演出家やプロデューサーたちが、ゲイ役の芝居に一人の観客に戻ったように落涙するのは名場面です。 
 ニール・サイモン夫人だったころのマーシャ・メイスンの意見でラストが変わったエピソードも興味深い。
 やがて、それぞれの役をたった一人が獲得し、すべてが終わる。『What I did for love』が勝者敗者の苦闘を慰めるように流れる。
 キャナルシティでもソラリアの名画座でもよいので、アッテンボロー『コーラスライン』と本作で番組を組んでくれないかしら。                  

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2008年9月 1日 (月)

『おいしいコーヒーの真実』 テレビじゃ教(おせ)えてくんない

 コーヒーの美味しさの謎を追うグルメものかと思ったら、フェアトレードのあり方を問う社会派ドキュメンタリーだった。原題『BLACK GOLD』、コーヒーは膨大な利益を生み出す金だが、果たして生産者の境遇は・・・。

 世界中で1日当り20億杯(そのうちアメリカ人が4億杯)飲まれているコーヒーは、年間の売上げが8兆円を越える。ところが価格がブラジル産を対象とするニューヨーク先物取引市場の基準で決まるので、アフリカやイエメンなどの市場もあおりをくらい、多くの生産者が異常な安値で買われ、貧困に陥っている。
 コーヒーが国家輸出額67%に及ぶエチオピアでは、1日8時間手作業で豆を選り分けても50円くらいしかもらえない。20年に渡って外国から援助を受けているが、高く売れる芥子の栽培に乗り換えざるを得ない農民も出ている。
 生産者の過酷な現状を紹介しつつ、エチオピアで7万の農民をかかえる地域の農協の代表が、少しでも高い値で売るため東奔西走する姿を追う。
 ネスレやスターバックスなど大企業が、生産者を貧困に追いやっても、安く買い叩くことで巨万の冨を得ているシステムが浮かび上がる。巨大企業はノーコメント。
 わざわざ映画館まで足を運び、高いお金を出してまで観る価値のある作品。
 
 昔の寄席で、吉原で女郎を買うシステムを事細かに説明するシーンやなんかに、噺家が「学校では教(おせえ)てくんない」と笑いをとっていたように、まさに、この作品の面白さはテレビでは観られない、<教えてもらない>情報に満ちている。『ディア・ピョンヤン』『ウリハッキョ』『蟻の兵隊』『靖国YASUKUNI』『シッコ』『スーパーサイズ・ミー』などの秀作もそうでした。
 <テレビでは教えてもらえないこと>を並べてみると、テレビの情報だけでは決して世界の実情は見えないことを痛感する。

 北朝鮮の庶民や北朝鮮籍の在日の人々が、毎日普通の生活を送るのに大変苦労していることや、戦争の加害もちゃんと報道してくれないし、なにより<企業の悪>を観ることは出来ない。

 ここ数年コマーシャルを大量に流しているアメリカの生命保険会社は、『シッコ』を観てもらっては困る訳だ。食べつづけると嘔吐したり精力減退するハンバーガーのマクドナルドにとって、『スパーサイズ・ミー』は不買運動以外の何者にも映らないでしょうね。

 『蟹工船』が大ヒットらしいが、現在の蟹工船であるトヨタ工場の実態は取材されない。秋葉原の通魔事件と関係あろうがなかろうが、労働者を部品並に使い捨てする現状があるにもかかわらず。
 小売業の廃業が続き商店街が<シャッター通り>になったニュースでも、大規模ショッピングセンターの進出が、地域の小売業を根絶やしにしている事実を紹介しない。
 地球温暖化や二酸化炭素の増加を心配するくせに、原発がなくても電力に困らないことや、原発の近くで草花や魚の異常がみつかっていることも報じない。
 テレビに大きな広告料を払っているからである。企業の広告は自社製品の販売促進が目的だが、一方で不都合なニュースを口止めする役割もある。その広告料によって、キー局で30歳過ぎ、ローカル局はで40歳前で年収1000万円の高給を支えている。

 福岡でも名画座形式で特集を組んでもらえないですかね。『スーパーサイズ・ミー』『おいしいコーヒーの真実』の2本立てや、『ゆきゆきて神軍』『蟻の兵隊』『ヒロシマナガサキ』の戦争特集、『ディア・ピョンヤン』『ウリハッキョ』『ハルコ』在日コリアン特集なんてのは、大変勉強になると思うのだが。

 

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2008年8月 3日 (日)

『靖国 YASUKUNI』  右も左もファシストにご用心

 日の丸をかかげた軍服はちまきの男が参拝する姿を延々と追う長いショットよりはじまるこの作品。被写体に対する価値判断をあえて避けているようなタッチで、境内を訪れる人々や周辺で起きる風景をできるだけ丁寧に記録していく。刀鍛冶にも、長い時間をかけじっくりと人柄に迫ろうとしている。それぞれ立場の異なる人々を理解しようという誠実なスタイルが成功していると思う。
 最近書店で平積みになっている偽書(南京事件や従軍慰安婦が嘘と云うような)を真に受けロクな知識しかないものには『反日』にみえるだろう。
 プログラム(福岡ではパンフレット)は土本典明と監督の対談、佐藤忠男の評論、参考文献の紹介なども含め至れり尽くせり、情報満載、素晴しいものである。

 印象に残るのは、まずいくつかの屁理屈。
 「二度と戦争をしないための参拝」と云う小泉純一郎。
 武装姿の集団やアメリカ人中国人と云うだけで強い嫌悪を表す排他的な人たち、普通に考えて平和を望んでいる人々が参拝しているとはとても思えないのだが。過去の海外侵略が正しかったとする遊就館もまたしかりである。
 ラッパもまもとに吹けない軍服姿に、どうして旧海軍陸軍OBは抗議しないのだろう。退役軍人が拝受した勲章を胸の参拝なら理屈はとおるが、軍人になったこともない人間が軍服を着る無作法に、大日本帝国海軍陸軍に対する冒涜だと、なぜ怒らないのだろう。
 石原慎太郎の「天皇陛下にも参拝を」もバカな発言で、東京裁判での天皇とA級戦犯の関係を考えれば、A級戦犯に頭を下げるなど昭和天皇にとって立場上絶対にできないことで、天皇の都合さえ無視してかかっている屁理屈である。
 このような理不尽さ屁理屈が、<右>と云うより<ファシズム>の本質なのである。

 理屈から云えば右(天皇制)にしろ左(共産主義・社会主義)にしろ主義は手段であり方法で、目的ではない。目的は国民の幸せ<国民が健康で安全な人生を全うできること>である。権力さえ握れば、民の幸福はそっちのけで権力者の幸せ・都合だけを追求するのは、大雑把な定義だがファシズムである。
 ソ連や東ドイツが失敗したのは、ファシズムが行き過ぎ国民の反発をくらったからで、社会主義が間違っていた訳ではない。

 維新の志士たちは天皇のことを玉(ぎょく)と呼び、<玉を手中に>すれば天下を取れると抱え込んだ。戦国大名が上洛し天皇のお墨付きをもらうことと同じである。
 徳川幕府をクーデターで倒した明治政府は、薩長中心の下級武士出身が多かったため、徳川270年の威信にかわる権威として神社のシステムを利用した。江戸時代各藩が独立国家だった日本にも、どの家にも先祖を奉る神棚、地域には土地の先祖を氏神として奉る神社があったからだ。国民自身の祖先の頂点に天皇を据えたシステムで、それまでの眼に見えない抽象的な神にかわって、生きている神なので現人神とした。
 もともと仏教に帰依する伝統の天皇を神様にしたこの国家神道、明治になって作り出された新興宗教である。日本の1300年の歴史をみればよく分かる。

 権力を揮うときは天皇を陰から操り、非難がくれば天皇の後ろに隠れる。天皇の一人歩きを決して許さない。『仁義なき戦い』の山守組<神輿>と同じで、菅原文太の名台詞「神輿が勝手に動いちゃいけんのよ」である。全権を持てると誤解した明治天皇に伊藤博文は、大日本帝国憲法発布のときかなんかに、「陛下は我々のいうことをきいていれば間違いない」と、やんわりと釘をさしたくらいである。
 天皇を利用した大日本帝国くらい不敬はない。これもファシズムの特徴なのである。

 明治政府が作った大日本帝国は、国策が天皇の意思なのか首相はじめ政治家たちの意思なのか曖昧にしたシステムのため、上意下達という軍隊の命令系統がないがしろにされる。
 作戦をたてる連中は、上層部に逆らっても結果オーライと考え好き勝手にやりだすわ、戦闘に参加する下っ端は、国民の貧困などの失策を天皇の意思とは考えないで、とりまきの政治家軍人の責任と捉えテロに走るわ、軍隊はもう暴走するしかなく自国民だけでも300万人を殺してしまった。
 1945年大日本帝国は、1889年の憲法発布からだとわずか56年で滅んだわけである。
 
 ところが、民主主義の世の中になってもファシズムは死なない。
 一番よい例が岸信介である。
 生きて虜囚の辱めを受けず、国民に<鬼畜米英>に対する特攻隊などの自爆テロや、銃後にも玉砕まで強要しておきながら、アメリカが権力を握ると米軍が駐留する国で首相になり、今度はアメリカの走狗となって米軍の助っ人に成り下がるがごとき国づくりを指導した。彼を国賊と云わずして誰が国賊なのか。靖国に眠っているつもりの英霊にこんな失礼な人生はない。

 父親や兄弟が靖国に眠っていると信じる家族が参拝するならまだ理解できるが、信教の自由さえ無視し、望まない故人を勝手に奉るなどという神社の姿勢も、右ではなくファシズムである。
 
 秀作だが地味なこのドキュメンタリ−をここまでヒットさせた功績は、いったんは上映中止にしマスコミに社会問題として取り上げさせ、首相の言質までとった(のが策略だとしたら)アルゴの社長と、イチャモンつけた女性議員たちである。深謀遠慮にみごとはまった議員たちが間抜け。
 ソクーロフ『太陽』は、そばに大人のオモチャ屋があるような、東京三原橋の元ポルノ映画館で上映されたにもかかわらず、無視されたため<かわった映画だね>くらいの印象しか残されなった結果を考えれば、知らぬ振りをしていれば<ユニークな映画の話題>ですんでいたものを。

 ファシスト議員たちが、この作品に嫌悪感をおぼえた理由はよく分かる。
 かれらは、靖国神社に参拝するといっても見てくれだけは上品な同好の人たちと集い、『海ゆかば』を合唱するくらいのセレモニーに参加する程度で、この作品を観るまでは参拝する人々の実態までは知らなかったろう。参拝者たちのグロテスクさを見るに及んで、「こんな下品な連中といっしょにしないでよ!」てな気持ちになったのだろう。
 蝦蟇が鏡を前におのが姿の醜悪さに脂汗タラタラの図である。

 ラスト、空撮のカメラが闇に浮かぶ靖国神社の俯瞰から取り巻く東京の夜景へパンしていく。ぞっとした。ファシズムは今、企業ファシズムとなって21世紀の日本を支配しているからだ。それはまた別のお話。
 

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2008年7月 2日 (水)

『花はどこへいった』 公私混同の未消化作品

 ずいぶん久しぶりの岩波ホール。
 サタジット・レイ『大地のうた』三部作や『チャルラータ』『大都会』、ヴィスコンティ『家族の肖像』『ルードウィッヒ』、ベルイマン『ファニーとアレクサンドル』、トリュフォ『緑の部屋』、アンゲロプロス『旅芸人の記録』などなど、楽しませていただいた映画館。白石加代子の芝居も、ここで観ましたね、作品名は忘れたけれど。

 『花はどこへいった』は、ベトナム戦争の枯れ葉剤被害の実情を取材したもので、志は高いけれど、なにせ未消化。作り手の視点が定まっておらず、せっかくの被害者たちの映像が十分生かされていない。
 ジョーン・バエズの歌も取ってつけた感じだし、監督の旦那のことは余計です。

 旦那の後援会とスチル写真の映像とをおまけしても、これで1800円とっちゃ岩波ホールの名が廃りませんかね。

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2008年3月31日 (月)

『マイ・シネマトグラファー』 映画ファンには、たまらない

 ジュンク堂でレンタルして観た。このような面白いドキュメンタリーが公開されていたことすら知らなかった。

 池波正太郎風に書くと、

 アメリカンニューシネマを観ていた映画ファンには
 「こたえられない・・・」
 
 てな感じである。

 わたしにとってハスケル・ウェクスラーは、『夜の大捜査線』『アメリカングラフィティ』などで、夜を大変美しく撮影するキャメラマンという印象が強い。『ウディ・ガスリー』も素晴しかった。
 アメリカ映画が、人工的なセットから出てロケーション撮影を重視し、リアルな映像に目覚めた時代の名キャメラマンのひとりである。
 このドキュメンタリー、名キャメラマンの作品を回顧する映画史的な作品かと思えば、さにあらず。
 80歳を越え、色弱にもめげず、社会派ドキュメンタリーを自ら作りながら、本編の撮影監督に自分を売り込む、エネルギッシュな映画人の今(5年ほど前だが)を追ったものである。

 『アメリカを斬る』というドキュメンタリータッチの劇映画を監督したのは知っていたが、ジェーン・フォンダとベトナムまで行ったり、ニカラグアの左派をモデルにした映画も作っていたほどの人物とは知らなかった。
 富裕な家庭で育ったにもかかわらず貧困や差別などに敏感なリベラルな人間に育ったところなど、ジェーン・フォンダやジンネマン『ジュリア』みたいである。 

 原題は『Tell them who you are』。
 監督は実の息子。子供の頃、街であった有名人にもじもじしていたら、親父から云われた台詞がタイトルになっている。お前だって有名なハスケルの息子なのだと。
 息子は映像作家ながら、ホワイトハウスなどの保守系から仕事がくるくらい、政治的には無頓着なタイプ。
 親父のインタビューより夕陽を優先させたい息子、このシーンの言い争いなどは爆笑もの。
 息子は、親父の大変ユニークなキャラクターを出すために、保守的立場を少し強調しているのかも知れない。
 偉大な父親に小さくなりながら大人になった息子。自分との違いを痛感しつつも、愛情深く親父を見つめてゆく。

 撮影に熱中するあまり自分が監督になったつもりで現場を仕切ってしまうらしく、『カッコーの巣の上で』を下ろされた経緯や、エリア・カザンやマイケル・ダグラスがハスケルに手を焼いたエピソードから、かなりの頑固者だったらしい。
 名作『帰郷』で仕事をしたジェーン・フォンダは「ハル・アシュビーとは、目指すスタイルが共時的:シンクロニスティックに似ている」と。
 <狷介だがハル・アシュビーとは仲良し>
 分かるなあ。
 指摘したのが、ジェーン・フォンダと云うのもいい。
 ジェーンに、有名人を親に持った先輩として、父親との和解を勧められるシーンもホロっときます。

 真面目なコンラッド・ホールが長年同志で、家族ぐるみの友人と云うのも面白い。
 
 「歴史を理解できないと、今にしっぺ返しをくうぞ」
 アメリカ先住民の苦難を語るコメントなど、拍手したくなった。

 実の子供にしか作れなかった秀作として『ディア・ピョンヤン』に通じる雰囲気もある。

 ポール・ニューマン、ビリー・クリステル、デニス・ホッパー、ジョージ・ルーカス、ロン・ハワード、シドニー・ポワチエ、ノーマン・ジュイスン、アービン・カーシュナー、マーティン・シーン、素顔の方が美しいジュリア・ロバーツ、豪華な面々がインタビューに答える。

 90分ながら、大変濃厚な面白さの一編です。

 
 

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2008年3月 8日 (土)

『真実のマレーネ・デートリッヒ』 筋金入り

 反戦アーティストとしてのデートリッヒの伝記ドキュメンタリー。

 こうして時代を追ってデートリッヒの人生を概観すると、改めてこの人の凄さが分かる。

 <ナチに踏みつけられた本来のドイツ>のために、母国の軍隊と戦う連合軍への慰問に奔走する。
 <ファシズム国家にあっては国民も犠牲者>であることを、30年代から死ぬまで公言してきた勇気も素晴しい。
 スタンリー・クレイマー『ニュールンベルグ裁判』に出演し、台詞を書き直した意味も大変重いものです。

 デートリッヒの娘と孫が製作しているので、プライベートフィルムが多く興味津々。40年代、恋仲だったジャン・ギャバンの私生活がカラーで記録されている。やはりいい男である。
 
 時代説明が不十分なのが、玉に瑕。せっかくの『リリー・マルレーン』、ドイツ語の『花はどこへ行った』の背景がよく分からない。
 特に『花』、もっとじっくり聴かせてほしかった。

 ついでに、アメリカ世論から非難ごうごうでも、初めからイラク侵略反対を公言したマドンナも、本当に立派。


 

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2008年2月19日 (火)

『いのちの食べかた』 愚作

 予告編で、信頼している方のコメントがあったので観たが、文字通り、愚かな作品。
 タイトルが嘘。原題の『われらの日々の糧』が理解できるわけでもない。
 人間の食物となる牛・豚・鶏などが工場で殺される様子を幾何学的な構図で延々と見せ、その間に、従業員の食事風景が入るだけの、ナレーションのない90分。
 なんだ、これは。
 「屠殺場は、かわいい牛や豚をこんなに残酷にあつかっているんですよ」
とでも、云いたいふうな作品だが、どういたしまして。
 屠殺は、いつの時代も最新のテクノロジーで処理されている。古代でも、もっとも鋭利な刃物で殺していたのだ。電気ショックの後、脳を破壊する手段、珍しくもない。
 生命を奪う厳粛な場で、この監督が熱心にしたことと云えば構図に凝っただけ。奪われる生命に対してだけでなく、観客に対しても不遜である。
 
 テレビで、ドイツの農家が豚一頭捌くドキュメンタリーを観たことがある。
 一家そうがかりで早朝から仕事を始める。ノドをカットし血を受け止める。肉はベーコンに、臓物からは様々なソーセージなどに、一滴の血も無駄にせず作っていく。時間との勝負なので食事も立ったまますませる忙しさ。 
 観ていると、初めは、血や内蔵などが不気味な印象だが、ひとつひとつ丁寧に作り上げる様子は感動的。殺した命を細部まで無駄にせず、人間の命を支える糧に作り変えていくプロセスを通して、命に対する敬虔さが伝わるからである。
 しかるに、『いのち』は殺される段階しか追わない。食品に作り上げられる過程を撮影対象にしていない。
 人間が、動物や植物など、ほかの生命を食べなければ生きていけないのは<業>である。その<業>を見せたいのなら、食べものになるまで、なぜ表現しない。

 一方、『いのちの食べかた』のホームページは、真面目なもの。配給会社の努力が感じられる。<業としての食>に、真摯に取り組んでいるのが分かる。売り方に苦労しているんでしょうね。
 映画よりホームページの方が、メディアとして質が上という、驚くべき珍品。
 <業としての食>に関心がある人は、ホームページを見たほうが、映画を観るよりはるかに有意義です。
 

 
 

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2008年2月16日 (土)

『ブラインドサイト〜小さな登山者たち』 サイコホラー・ドキュメンタリー

 『国民の創世』と云う大変古い映画がある。1915年に発表されたサイレントで、グリフィスがさまざまな映画表現を生み出した名作と位置づけられている。
 ところが、これ、白人暴力集団KKK(クー・クラックス・クラン)を善玉、黒人を悪にした、とんでもない迷作なのである。価値観が狂っているのだ。
 名著『ぼくの採点表 戦前篇』(双葉十三郎)でも、技術的に評価しているだけだ。
 胡散臭い世界観の映画は、映画史上たまに現れる。
 『シンドラーのリスト』
 内容以上に問題なのはラストのエルサレムの献花シーン。ここが、かつてのナチのホロコーストのような日常的な虐殺が、イスラエルによっておこなわれている場所だからだ。アジア各国で、パレスチナの実情を無視し、イスラエルの正義だけが強調されていると、上映反対運動が起きたほどである。
 
 『国民の創世』的作品(世界観が狂っている映画)が、ドキュメンタリーにもあった。

 『ブラインドサイト〜小さな登山者たち』は、チベットでは視覚障害の子供たちが受ける差別がひどいので、エベレスト登山に挑戦させるお話。
 製作者は、子供たちより、引率するスタッフの言動を追う。どうも、子供たちをエベレストに連れ出すことは善行だと決めつけ、子供の気持ちよりスタッフの苦労を重要に位置づけているようなのだ。
 タイトル『小さな登山者たち』、看板に偽りあり。
 異常な価値観は、途中で正体を現す。
 3000メートル?くらいで、子供たちは高山病に苦しむ。
 「死にそうだよ!(ちゃんと字幕にありました)」と泣く子供に、スタッフは笑顔で小さな肩を掴み
 「3000メートル登ったんだ、誇りだぞ!」
と子供の気持ちを無視。
 シネテリエで思わず吹き出しましたね。
 子供たちの高山病のため、途中で引き返すことになる。スタッフのインタビュー。
 「登山家としては、ここまで来たからには、頂上を目指したかったが、子供たちがいるので、しかたない」
 つまり、連れて行った子供たちが足手まといだと笑顔で語るのである。
 エンドタイトルは、子供が歌う『Happy Together』
 観終わって呆然とした。ブラックな疑似ドキュメンタリーと本気で考えもした。

 プロジェクト自体が変なのか、映画だけがおかしいのか、分かりませんが。

 友人が、サイコホラーですね、とうまいことを云った。
 

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2008年2月12日 (火)

『不都合な真実』 怪しげな世界観

 評判がよいので観たが、ラストタイトルロールにメッセージが延々と出るに及んで、ムラムラと怒りが湧いてきた。
 ホールの講演がメインで、現地へカメラが行かず、ドキュメンタリーといえないような映像という訳ではない。
 また、ゴアがどこかの研究者の地球温暖化学説を、本人の替わりに講演している訳でもない。
 はたまた、テーマにまぎれて、選挙運動のようなお仕事映像を見せられるからでもない。
 怒りの理由は、ふたつ。
 ひとつは、放射能の危険性を無視していること。いまひとつは、権力者が市民に責任転嫁していること。
 二酸化炭素の増加による地球温暖化、それ自体は大変な問題ではある。しかし、緊急性と云う意味では、原子力発電所や劣化ウラン弾などの方がはるかに深刻。
 1986年のチェルノブイリから飛び散った放射能は、今もなお世界中を巡り、人を殺し続けている。
 日本には、いつ大規模な放射能漏れを起こしてもおかしくない原発が53基ある。
 『七人の侍』、村の長老(高堂国典)の「首が飛ぶっちゅうのに、ヒゲの心配して、どうするだ!」
見たようなものだ。
 ここ数年にわかにマスコミが取り上げだした<地球温暖化>そのものが、原発の危険性を隠すような意図のもとにでっち上げられたような気がしてならない。
 アル•ゴアは、フロリダ州の投票がまともに数えられていたら、アメリカ大統領に当選していたはずの、政界の実力者である。産業界ともつながりが強い。
 地球温暖化を阻止しようとするなら、やるべき仕事は、産業界に働きかけ、自動車の生産台数を減らすとか、公共の交通機関が充実するような都市計画を推進するとか、揮える権力に応じた仕事があるはずである。
 権力者として自分にできることを説明し、応援を求めるというならまだしも、ゴア本来の仕事を棚上げして、市民にだけ省エネを押し付けてどうする。国家の英知を集めているはずの環境庁が、国民にクールビズ(薄着)、ウォームビズ(厚着)、夏の水まきを、大々的に呼びかける愚と同じ傾向のものである。
 以上のことを承知で、ゴアはこの映画を作っているのだから、環境問題は、いち市民としては、よくよく深く考えないと危ないです。
 

 

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