洋画

2009年7月31日 (金)

『レスラー』 プロレスが観たくなった! 

 プロレスなんぞというものは長年軽蔑の対象でしかなかった。
 立派な体格の大人が、避ければ避けれられるパンチを受け、大仰にリアクションをしてみせる。みっともない。スポーツの名に値しないプロレスでチャンピオンとは、さらに奇々怪々。まったく興味の向かない世界だった。この映画を観るまでは。

 久しぶりのミック・ロークがオスカー主演賞候補となって有名になったこの作品。まず、プロレス業界(だいぶマイナーらしい)のリアルな描写が、興味津々。
 ホームセンターに<凶器>を買い出しに出かけ、<痛くないのを確認>する。小学校の体育館などレンタル料の安い会場に立つリング、対戦の組み合わせは当日試合直前に決まり、レスラーたちが<段取り>に知恵を絞る。他の組と技がダブルと一方が譲るなんて、爆笑もの。周到なリサーチの賜物ですね。先輩に敬意を持って挨拶に出向いたヒール、「遠慮なしに攻撃してください。私はホッチキスを受けますので」。試合が終わってロッカールーム?に戻って来る先輩をスタンディング・オベーションのレスラーたち。ここらへんで不覚にも少しウルウルきましたね。
 プロレスを嫌悪していた当方のような野暮にも、新しい世界を理解させてくれる。映画のいいところです。プロレスファンの夢を壊す?営業妨害のような映像がテレビでは観られないし。
 
 面白さのポイント、2つ目。本作が優れた中年映画であること。中年映画なんて、カテゴリーがあるかどうか知らないが、『サイドウェイ』のような中年の本音を扱った作品のこと。例えばです。

 余談。名作『サイドウェイ』の版権を日本のプロデューサーが買いリメイクしている。ワインを日本酒に変え、東北あたりの蔵元をめぐるロードムービーにしたかと思いきや、なんとカリフォルニアのワインをめぐる設定をまんま再現するらしい。厚顔無恥。ポール・ジアマッティにカメオ出演を断られたオマケ付き。ポールいわく「ボクのキャリアを貶める」。

 中年を広辞苑でひくと「青年と老年の中間の年頃。四十前後の働き盛りの頃」とある。ええ!、じゃこちらは老年かと思い慌てて大辞林のページをくったら「青年と老年との間の年ごろ。現代では、ふつう40歳代から50歳代にかけてをいう」とあり少し安心した。
 
 
 


 

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2009年6月27日 (土)

『グラン・トリノ』 アメリカも捨てたもんじゃありません

 クリント・イーストウッド監督。優れたシナリオを巧い役者に演じさせ、芝居のよいところだけを奇をてらわずにつなげていく作風は、いいかげんな表現の監督が氾濫する中、大変貴重なものだ。
 しかし、この監督決してテクニックに長けているとも思えないし、リベラルな世界観を持っているわけでもない。正攻法の映画演出を楽しめる、といった程度の気に入り度。感服したのは『ミリオンダラー・ベイビー』だけで、『ミスティックリバー』はミステリーとして楽しめたが、『スペース・カウボーイ』はエエカッコしいでリアリティに欠け、硫黄島2部作は最新テクノロジーのルックだが古くさい戦争映画だし、『チェンジリング』もまあまあ。それで本作もあまり期待していなかった。
 でもこれは傑作です。

 余談。『スペース・カウボーイ』の、イーストウッドそっくりのシカメつらを顔マネして、若い時代のイーストウッドを演じたのは、マギー・スミスとロバート・スティーブンスの息子です。
 マギーは『ミスブロディーの青春』でオスカー受賞、最近ではハリー・ポッターのレギュラー。ロバート・スティーブンスは、ゼフィレッリ『ロミオとジュリエット』の馬上から叱責するベローナの王子様や、ビリー・ワイルダー『シャーロック・ホームズの冒険』のホームズ。地味ですが、名優夫婦です。

 閑話休題。
 まずウォルトの人となりの描写が、役者イーストウッドの独壇場で面白い。無作法な孫や日本車のセールスマンの息子が気に入らず、犬のような唸りを漏らす。『ダーティー・ハリー』の頃からか、嫌悪を顔に貼付けたような表情が、この人の看板のようになった。山田康夫の声が聞えたように感じたら、中年の証拠です。
 隣家の姉弟と親しくなっていく過程も、丹念でストーリーテリングのお手本のよう。少数民族の風俗も興味深い。唾を吐かれても、アメリカ文化が染み付いていたら引き下がるが、新参のアジア人家族にとっては、ヤングギャングを追い払った恩の方が優先する。押し付けがましいお礼のプレゼント作戦が、とまどうウォルトの懐に入るきっかけとしたドラマ設定には唸りました。結局、アジア人への嫌悪が習慣化しているウォルトだが、礼儀正しく対応されると無碍に断れない性格。おそらく、保守的なアメリカ市民に共通する感情なのだろう。
 ウォルトが住む住宅地はすでにアジア系住民が多数派になっているし、銃を振りまわす若いギャングにも手を焼いている。
 ウォルトは、フォードで車を作っていたエンジニア。長年フォードで働いたなら鎌田譿の『自動車絶望工場』のような職場の管理職をやっていたはず、と突っ込むのは野暮というもの。
 そのウォルトは20前後で朝鮮戦争に従軍し勲章を受けている。アジアギャングに「戦争でお前らのような黄色いガキを何人も殺したんだ」と凄むものの、本当の気持ちが違うことは後で分かる。
 復讐を誓う少年に、50年前の武勲が殺人以上のものでない愚行だと告白するウォルト。しかも命令されたわけではなく自発的に殺したことを悩んでいた。私がこの映画を好きになったのは、この戦争観だ。
 59年前の朝鮮戦争ではあるが、<民主主義の国民を共産主義の魔の手から守ってやった>武勲を、後味の悪い殺人だと表明しているのだ。ウォルトが年老いたからか、余命幾ばくもないからか、憎むべき黄色い肌の国民が、実は自分たちと変わらない市民だと気づいたからかは分からない。ただ大スターが主演する映画で、アメリカの聖戦にこんな評価を下した作品はあまりない。
 『ミリオンダラー』の脚本家ポール・ハギスの傑作『告発のとき』では、イラク戦争が両国の子供を死に至らしめているのが実情だと告白したのに近い戦争観が垣間見える。
 そしてなにより素晴しいのは、地味な本作がアメリカでイーストウッド作品として一番ヒットしたこと。それは<民主主義の国民を共産主義の魔の手から守ってやった>武勲を、後味の悪い殺人だという考えに共感したからだ。

 現在外国で起った事件や事故は、リアルタイムで日本にも届く。即時性がテレビニュースの真骨頂だが、事件の本質を捉えているかは別の問題だ。巨大企業がメディアを支えている限り、企業と癒着した政府の価値観が最優先する。
 がんじがらめのニュースでは、アメリカで反戦を訴えれば非国民のレッテルを貼られる風潮がある、一部少数派の人々だけが反戦を訴えていると報道する。それは事実だろうがアメリカのサイレントマジョリティーの届かない声は、戦争をどう考えているのか。ときとして作り物の世界の方が優れた報道性を発揮することがある。『グラン・トリノ』は、そんな希有な映画だと思う。

 一方文句もありますね。
 なぜ、主人公は死に急ぐんですかね。エンターテインメントだからといってもエエカッコし過ぎです。余命が少ないこと、ギャングたちに殺人罪を追わせたいという理由だろうが、もっと現実的な解決策がなかったんですかね。
 最後の主演作なんでしょ。そしたら、出世作『荒野の用心棒』で、ゾンビのように復活し、ジャン・マリア・ボロンテの度肝を抜いた手があるでしょうに。エンジニアなんだから、車のボンネットを細かく刻んで利用しようとは考えなかったのですかね。


 

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2009年4月17日 (金)

『リービング・ラスベガス』 絶品!エリザベス・シュー

 イギリス・エンパイア誌が選んだ『落ち込む映画』堂々の第三位。
 落ち込むのは酒で死に行く男に感情移入するからで、惚れた娼婦のつかの間の恋だと思ってみれば、しみじみとした情感が楽しめる。
 
 ニコラス・ケイジがアルコール依存症者を熱演しオスカーを受賞して話題になったが、中身は女性映画で主演のエリザベス・シューだけでチケットの価値ある作品。オスカーは『デッドマン・ウォーキング』のスーザン・サランドンの持っていかれた。

 シナリオライターのケイジは、仕事を酒で首になり死ぬまで飲む目的でラスベガスを訪れる。途中で遭遇するヤクザの一人に、エド・ローターがチラッと見える。知らないと映画ファンとは云えない役者の一人で、オルドリッチの名作『ロンゲストヤード』がベストでしょうか。

 娼婦サラ(シュー)は買った客のケイジに「思わず本名を名乗った」と嬉しそうに話す。懸命のサービスを断った男が自分と同じ恐ろしいほどの孤独に陥っていることを知る。セックスの仕事の場が、思いもよらず恋人同士のような睡眠に。「いつもは別人になろうと芝居をしているのに、自分に戻れた」と寝顔を見守る女。

 一人はもう嫌と同棲を求めるシュー。初めは断る相手に悲しそうな顔を見せ、相手の優しさに泣きそうになるくらい戸惑ういじらしさ。カジノでいきなりキスする男に、聞こえないほど小さな「愛してるわ」の囁き。カジノの用心棒につばを吐きかけるプロの顔とのコントラストも素晴しい。

 愛する時間が重なると娼婦という仕事がつらくなる。べガスを離れて休日を楽しんだり、食欲のない男に、食べやすかろうと米料理をつくったりして、<主婦したい>女心が強くなるが・・・。

 成瀬作品のような女性映画の佳作です。

 

 


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2009年4月 5日 (日)

『リトル・ミス・サンシャイン』 ままならない人生でも

 国は違えど6人の個性がそれぞれ<今>を感じさせる本作、大いに満足。
 リメイクやCG頼みやらが多い中、やはり<腐ってもアメリカ映画>である。

 小太りで眼鏡なのにミスコンに憧れている7歳の少女、アビゲイル・ブレスリン。子供の身体的なコンプレックスを扱うことも凄いが、ちゃんと説得力ある演じ方ができる子役がいることに驚いた。

 自己啓発本『成功への9つのステッププログラム』を出版し、ひと山当てようとしている父親、グレッグ・キニア。「世の中には勝者と敗者しかいない」「強い思いを抱けば必ず成功する」という固定観念の俗物。唸りましたね、この人物の造形には。サイトでもこの手の怪しげなイベント屋の多いこと! 

 ニーチェを愛読、超人思想からか空軍パイロットになるため、筋トレを欠かさず家族とも筆談ですます、9ヶ月引きこもっている15歳の長男、ポール・ダノ。

 ヘロインで老人ホームを追い出された祖父、アラン・アーキン。「未成年だと罪にならん」、15歳の孫に同年代とのセックスを勧める過激な老人。「ナチと闘った俺が若い頃犯した失敗をするな!」 シャイ過ぎたためか、愛妻家だったのか女遊びは無縁の過去があり、老人になってセックスに開眼したらしい。「老人ホームじゃ、ペニスが乾くヒマがなかった」も強烈。
 
 プルースト研究の第一人者で、若い恋人をライバルにさらわれたゲイ。自殺未遂したあげく学校を首になった伯父に、むっつりしたヒゲ面のスティーブ・カレル。自殺の顛末を7歳の姪に、ちゃんと伝える生真面目な性格で、金と名誉の俗な夢ばかり追いかける義理の兄とは正反対の価値観の持ち主。
 
 タバコが止められず、夕食とデザートをファーストフードと紙皿で済ます、料理ができない母、トニ・コレット。家族の中で一番クセがない役だが、自然な芝居の上手いこと。強烈な個性たちが奇妙な行動をとるなかで、トニのリアリティがあるからこそ、ドラマが自然に受け入れられる。

 伯父がきた夕食の場で、キャラクターをすべて紹介するシナリオ。うまい!
 お話はアビゲイルが出場するミスコンに、ポンコツ車で向かうロードムービー風になっているが、各人の夢がひとつづつ破れていくことでドラマが進む。

 まず、キニアの出版が失敗する。経済的に不安定な家計を支えてきた妻は、イライラを爆発させる。祖父は車の後部から運転席まで近づき、息子キニアの肩を抱いて「結果はどうあれ、チャンスに全力で挑戦したことを誇りに思う。頭が下がる、立派だ」。キテレツな祖父が、思いやりのある人だと分かる。この優しさが息子にも遺伝しているらしい。他の連中も変だが、どことなく品のある雰囲気をただよわせている。祖父が亡くなり、母の涙に長男は「ハグしろ」と妹にメモを見せる。
 「品行が悪くてもいいけど、品性が悪くてはダメだ」と、小津安二郎がどこかで書いていたが、そんな感じ。

 祖父は、孫のアビゲイルに「負け犬とは負けるのが怖くて挑戦しない奴だ」と慰める。アーキンが、少ない出番にもかかわらず、オスカーを獲得したのはこの儲け役に負うところが大きい。さらっと演じているのに、実にうまい。

 祖父の死で、ミスコン参加が絶望的になったとき、キニアは敢然と娘の希望を叶える旅を続ける。それまで、なんだか頼りなかった一家の長が、がぜんパワーを発揮し始める。怪しげな自己啓発本の出版も、経済的に豊かになって家族を幸せにすることが目的なのだ。出版は失敗したが、家族の幸せには、まだまだ方法がある。奇妙な人物の魅力的な側面が浮かび上がる。そして、全員が力を結集しだす。

 色弱だと分かりパニックを起こした長男が、妹のハグだけで我に返り「わがまま言ってゴメンナサイ」。土手に家族を並べ、前景に長男と妹がいるショットも素晴しい。

 波止場で伯父と甥が語り合うシーンは、シナリオライターの知性が光る。伯父のカレルが「プルーストは完全な敗者。ゲイで、仕事もせず20年でたった1作書いただけで報われない恋に生きたが、今じゃシェークスピア以来の偉大な作家。『苦しんだ日々が自分を作った。幸せな時間は自分を成長させなかった』とプルースト。悩みが尽きない高校生活は黄金時代。悩めるお前はバカじゃない」
 冴えなかったゲイが、爽やかな潮風にヒゲをなびかせ、頼もしい哲学者の顔になっている。「空軍パイロットなんか、くそくらえ。自分の力で飛んでやる」、高校生の甥も自分と勇気を取り戻す。

 クライマックスは、ミスコンで小太りの7歳の少女が、どうなるか。家族がひとつになるアイディアが、これまで観たこともないユニークなシーンとなって、観客を納得させる。

 失恋したり、持って生まれた才能が期待したほどでなかったり、人から裏切られたり、思った通りに行かない人生を誰しも生きている。負け犬と思われても、一つの物差しで判断しただけであって、一人の人間には、多くの可能性があり、意外に本人は気づいていない。観終わって、果たして自分や周囲の人々は?、とも思わせてしまう。

 優れた人間観察がないと良質のエンターテインメントになりえない、小品ながらそう痛感した名作です。
 

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2009年3月28日 (土)

『ロシュフォールの恋人たち』よもやま話

 シネテリエで20数年ぶりにスクリーンで観た。フィルム映写ではなく電子デジタル再生だからか、暗部が完全に再現できてないので色に深みがないし、小さなキャパのため個人ミニシアターで鑑賞したよう。喜びも半分くらい。
 DVD発売キャンペーンのための上映らしいが、本来の美しさを再現するのに欠かせないフィルム予算をケチった上、ロードショー料金を取るのは観客に対して失礼。
 デジタルリマスターというのは、パソコンにフィルムを取り込んで(テレシネという作業)修正したもので、本来ならフィルムに焼き直さないと(キネコという作業)いけない。だから、DVDかなにかを使った今回の上映は本当の色彩ではないのですよ。「デジタルリマスター版だからキレイね」なんて思わないように。騙されているのですよ。

 67年にロードショー公開されたのは、有楽座で70㎜プリント。有楽座といっても、マリオンの前のニュートーキョービルにある今の有楽座ではなく、座席数1500人、日比谷にあった旧有楽座。映画用の色彩設計で塗装したロケセットと衣装の鮮やかさ、シネスコの隅々まで展開する群舞、ミシェル・ルグランの傑作スコアとジャック・ドミー(いつからドゥミーなんて変な表記になったんだろう)の気恥ずかしくなるようなロマンチックで粋な歌詞のこの傑作ミュージカル。『ウエストサイド物語』『サウンド・オブ・ミュージック』のように、大きな劇場で初めて真価を発揮できるミュージカル映画である。博多座の座席数が1300だから、この映画の持つ迫力を理解できるでしょう。

 てなことに憤慨していたら、KBCシネマで『アラビアのロレンス』が2500円だそうな。劇場か、配給会社は、まったく客をなんだと思っているのだろう。この傑作は撮影も70㎜で、70㎜プリントを上映できる1000席規模の劇場ならまだわかる。35㎜であの狭さだと、本来の迫力は伝わらない。大きな劇場(せめてキャナルの一番大きな400席)なら冬場でもノドが渇き、休憩時間にコーラが飛ぶように売れる実績があるのだ。不況だと商売がセコくなるのか。デビッド・リーンと先日あちらへ旅立ったモーリス・ジャールは怒っているんだろうな。

 閑話休題。
 30年くらい前名画座で初めて観たのは英語版。直後にサントラを買ったらフランス語で、歌詞が妙に間の抜けた感じだった。その後オリジナルを観て、良さが初めて理解できた。
 70〜80年年代、名画座にもちょくちょくかかっていた。カンヌ映画祭グランプリ『シェルブールの雨傘』の名声に隠れていたが、観た知合いたちは、こちらの方を好きになってしまう。思わず口ずさみたくなるような佳曲ぞろいなのと、すれ違いドラマにテンポよく乗せられて酔わされてしまったからだ。

 ミュージカルの演出で面白いと思ったのが、惹かれ合う恋人同士が同じ旋律で、異なる歌詞を歌うこと。ペランとドヌーブ、ダリューとミシェル・ピコリ。ドラマを素晴しく効果的にした抜群のアイディア。

 この作品の魅力を一言でいうと、その大らかさ。細かいことを気にしない、懐の深さ、融通無碍というか。
 ペランが描いたドヌーブそっくりの油絵を観ても、ドヌーブを知っているカフェの常連は誰だか思い出せないのは何故だろう。
 ジーン・ケリーは楽譜を拾ってすぐ女性とぶつかり、翌日にはドヌーブと、ぶつかってばかり。
 音楽学校を卒業したはずのミシェル・ピコリは金曜日に聞いたドルレアックの曲を、翌日ジーン・ケリーのピアノで聞かされて、何故忘れているのだろう。
 (『サウンンド・オブ・ミュージック』のマリアは、たった一晩でカーテンから7人の子供の服を作ってしまう。)

 チャキリスが回転するホンダのオートバイに乗っているだけのダンスもどきやバスケットボールダンス、子供たちのバレーとコーラスなど、素人たちが演じることをきままに楽しんでいるさまは、港祭りということもあって、まるで博多どんたくだ。
 ジャズや戦前の歌謡曲を駆使し、掛け合いも自然で素晴しいミュージカル時代劇『鴛鴦歌合戦』。ヘタだからこそ味のあるナンバーが楽しい、ウディ・アレン『世界中がアイラブユー』などと通ずるところがある。
  
 ダンスに関して、アメリカ映画のようなプロらしいステップを踏んでいるのは、ジョージ・チャキリス(キャラバンのボス)とクローバー・デール(技術者)の二人組、それぞれの彼女(インド舞踊と中国舞踊の名手らしい)、ジーン・ケリー(作曲家)の5人だけ。
 オープニング、水兵や乳母車の人妻たちも、変なワンパターンの踊りで、バレースクールの先生役のカトリーヌ・ドヌーブは、いっさいプロの踊りを見せない。

 ヒロインの双子、20代前半にしては化粧の濃いこと! お姉ちゃんのドルレアックの方が、芝居が断然上手い。ジーン・ケリーと出会ってドギマギしたり、再会してうっとりする芝居の大仰さが素晴しく面白い。双子姉妹の歌など、時々小津映画のように画面に向かって歌う。観客サービスなのだろうか。これも、なんでもありのこの作品の面白さだ。

 一番かわいいのは、カフェの女給(店員だね)ジョゼット。

 まるで少女マンガから抜け出したような、プロンドでセーラー服のジャック・ペラン。欠点は猫背。兵舎を抜け出して油絵を描く水兵という設定。むっつりした兵隊たちと行進しながら、一人ニコニコ歌うペラン。ここを真剣に観てしまうのは、やはりこの傑作の魔法にかかっているからでしょう。
 ジャック・ペラン。60年代からフランスやイタリア映画に出ているこの二枚目は、1969年ポリティカルミステリーの傑作『Z』をプロデュースしたばかりか、アカデミー外国語映画賞をとり世間を驚かす。当時28歳、天は二物を与えた。その後もコスタ・ガブラスの渋い『戒厳令』などを製作し、77年『ブラック・ホワイト・イン・カラー』で再びオスカー受賞。2004年には『コーラス』がオスカー候補になる。主演の子役が実の息子で8歳、ペラン55歳の時の子供。しかも名前がマクサンス!(『ロシュフォール』のペランの役名)

 ジーン・ケリーとジョージ・チャキリスがフランス語の吹替えを承諾したのも凄い。ただし、この作品、英語版が存在しておりレコードも出ている。そちらでは二人は逆に自分の声で歌っているはずで、英語版を観ているが記憶にない。このバージョン、ジャック・ドミーはフランス語の歌詞をそのまま訳したのではなく、英語でオリジナルと異なる台詞と歌詞を書いたものの、オリジナルのファンから非難を浴び、英語版を封印したと聞いた。アニェス・バルダが生きている間は、公開を許さないでしょう。

 オリジナルで自分の声で歌っているのは、双子のお母さん、ダニエル・ダリューただ一人。
 ダニエル・ダリュー。1917年生まれ、現在91歳。デビューが30年代で現役なのが凄い。同い年のわが山田五十鈴は、もう引退していますからね。美しいがバカっぽく見えることで、白痴美人なんて、今考えるとヒドいいわれようをされた。大ヒット曲『ラストダンスは私に』を歌ったシャンソン歌手でもある。本作でも、ベテラン歌手の貫禄で、じつに気持ち良さそうに歌っている。

 

 

 

 

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2009年2月11日 (水)

『旅立ちの時』 心でつくるルメット

 『十二人の怒れる男』『質屋』『オリエント急行殺人事件』『評決』、どちらかと云うと強面の社会派作品や、ミステリーがお得意なシドニー・ルメットが、こんなかわいい小品を作っていたとは知らなかった。名画座全盛の時代だったら、ふらっと立ち寄った名画座で予備知識なしに観て、首ったけになるようなタイプの魅力ある映画だ。
 ベトナム戦争真っただ中の1971年、ナパーム弾を製造していた大学の研究所を爆破し、警備員を失明させた若夫婦(『普通の人々』の医者ジャド・ハーシュ、よく知らないクリスティン・ラーチ)は、15年間二人の子供を連れて、各地を転々としながら逃亡生活を送り、すっかり中年になっている。17歳の長男は、新しい土地でピアニストの才能を見いだされ恋人もでき、自分の人生を歩み出したくなるが、果たして両親は・・・。
 感受性豊かなリヴァー・フェニックスの青春模様だけでなく、今では放射性廃棄物処理問題など草の根的な市民運動を進めている、両親のドラマも面白い。

 父親は、両親がソ連から移住してきたコミュニストで、ロックはいいがクラシックはブルジョワ的だと云うカタブツ。母親の実家は裕福な家庭で、彼女の母親が全米心霊協会会長なる不思議な設定。ジュリアードを出てピアニストを目指しているうちに、夫と知合いピアニストの方は諦めたが、DNAが長男に受け継がれている。
 FBIから逃げるため、死亡欄から架空の名前を借り、社会保障証などの交付を受けているだろう。仲間から資金を得たり車を交換したりして、素顔を隠した人生を送っている両親だが、子供たちが素直に協力する姿がいじらしい。両親の生真面目さが推測できる。おそらく、20代前半の理想をそのまま追い求める気質を、中年になっても捨てきれないのだろう。
 かつての仲間が訪れ銀行強盗に誘われるが、夫は断る。妻の元カレらしいこの男も、暴力革命なるものをいまだに信じているらしい。一夜の宿を提供した夫が、60年代のヒット曲『オー プリティウーマン』を唄いながら泥酔して帰宅する。

 ♪ 可愛い彼女 通りを歩いてる彼女
   可愛い彼女 知り合いになりたいタイプ
   可愛い彼女 信じられない 君は夢か幻
   君ほどカッコイイ子はそういないよ
 
 いい年した中年親父の、少年のような妻への想いが、可笑しくもホロとっくる。

 リバーがガールフレンドのマーサ・プリンプトンを母親の誕生日に招き、みんなでジェームス・テイラー『ファイアー・アンド・レイン』を合唱する。両親の思い出の曲が、長男の心情と重なる選曲の巧さ。
 ♪ 燃え盛る火、降り注ぐ雨、
   決して曇ることない晴れた日々、
   たった一人の友達さえいない孤独の日々
   そんな明暗の日々があっても、ずっとまた君と会えると思っていた 
 
 80年代のティーンのマーサだが、父親が音楽教師だからだろうか、幅広い範囲の音楽を彼女が知っており、この家族が気に入る資質の持ち主で、古い言葉だがリバーのベター・ハーフ的な感じもする。

 ジャガイモのようなジャド・ハーシュもいいが、美しいクリスティン・ラーチが素晴しい。リバー・フェニックス、マーサ・プリンプトン、みなさん適役、これはキャスティングの勝利ですね。 

 クリスティンが絶縁していた両親との葛藤も丁寧に描いて、風変わりな家族の肖像が爽やかな感動を呼ぶ。
 
 このような家族の繊細な心情を描写するルメットのタッチは、冷静に人物たちの行動をありのまま紹介しようと、あくまでも素朴。奇をてらわず、それぞれの行動を一番理解できやすいポジションから切り取っている
 再会した元カレを拒絶した母親を、隅の階段でじっと聞いていたリバーなど、印象に残るシーンが多い。所々で観られるロングショットも、素晴しい情感を生む。愛犬を置き去りにするショットや、リバーとマーサが砂の崖を下り海辺に出るショット、ジュリアードの実技試験で高く評価されたリバーが、喜びを全身で表すように街角を走り回るショットなどがそれである。
 これは、ひとえにシドニー・ルメットが、いわゆる映画を<頭で作らずハートで作っている>証拠だと思う。いい監督だなあ、なんか惚れ直した感じ。 


 

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2009年1月31日 (土)

『デーヴ』 黒澤『影武者』からのパクリも

 ホワイトハウス周辺に集まったウンカのごとき群衆、オバマ新大統領によせる国民の期待を象徴するような映像だが、なんともはやである。ベトナム戦争を批判したマーチン・ルーサー・キングと、この男を同じように評価するとえらいことになる。肌の色は関係ない。コンドリーサ・ライスは、大変好戦的だった。ナチがユダヤ人を押し込めたゲットーのごときガザに無差別殺人を実行し、女子供800人を含めた市民1200人を殺したイスラエルを支持するなどとほざいているのだから。軍隊をイラクからは撤退するがアフガニスタンには増兵するらしく、ペシャワール会でただ一人残って活動している中村哲代表が心配である。

 てなことで、アイバン・ライトマン監督、1993年製作の大統領ファンタジー。脚本はトム・ハンクスが子供時代のメンタリティーに戻る『ビッグ』のゲイリー・ロス、キャプラテイストも味わえる秀作。

 田舎で小さな派遣会社を経営するケビン・クラインは、現大統領と瓜二つ、そのキャラを生かして自動車販売店のイベントにも出ていたりする。ホワイトハウスはケビンをスカウトし、大統領が多忙なとき本人のダブルにして成功する。ところが、大統領はスタッフの若い女(出始めのローラ・リニー)と浮気中に腹上死。このあたり、クリントンを連想させて面白い。
 大統領の死を公表すれば、副大統領がスライドして大統領に就任する段取りなので、主席補佐官のフランク・ランジェラが猛反対、権力を維持したいためケビンが正式にオールタイムで雇われることになるのだが・・・。

 プロットの前半で、『影武者』からいただいていると思しきシーンが多々見られる。
 まず、初めは臨時雇いで、そのそっくりぶりを試し、本人が死んだために全日制で影武者を勤めることになるいきさつ。『影武者』の閲兵シーン(これ、勝新太郎だったら名場面になっていろうに)が、本作ではホテルの出口から車に乗り込むまでになっており、それぞれ調子にのってやりすぎるのも同じ。
 新しいすみかとなる場所、『影武者』の武田館にあたるホワイトハウスを報道担当補佐官が丁寧に説明する。
 記者会見上で、大統領のクセをスタッフがデーブに教えるが、デーブの方が詳しく、スピーチのそっくりぶりに報道担当補佐官らが瞠目するのは、『影武者』で近習たちを前に信玄のしぐさをしてみせ、近習たちが落涙するシーンのいただきだ。

 やがて、持ち前の正義感から影武者が一人歩きし、大統領夫人を味方につけ、完全雇用法案を通すあたりはキャプラ的な味わいで、実によく出来ている。

 ケビン・クラインが好演、フランク・ランジェラも秀逸。昔ドラキュラを演じていたこの役者、中年になり太ってから、素晴しくよくなった。今年、ニクソンを演じてオスカー主演賞候補になっているのは嬉しい。『天国から来たチャンピオン』『ミッドナイトラン』のチャールズ・グローディンも楽しい。

 ニュース番組のキャスターや記者に本物が登場しており、オリバー・ストーンが狂信的に影武者説を実証しようとし、有名な司会者ラリー・キングにたしなめられるシーンは爆笑もの。

 このようなヒューマニズムをアメリカ大統領に期待できるのは、映画の中だけ。取り巻きに好戦的な連中ばかり集めたオバマの化けの皮が剥がれるのは時間の問題である。スピーチが素敵だなんて思っている人は、一度イスラエルの成り立ちを勉強したほうがいいでしょう。


 

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2008年12月30日 (火)

『群衆』 キャプラが身に滲みる

 バブルの時代、いったい誰が20年後に、アメリカの大恐慌時代のような社会になると、想像できただろう。チャプリン映画(とくに『街の灯』『モダンタイムス』『殺人狂時代』)やウィリアム・ウェルマン『人生の乞食』、『北国の帝王』などの<ふつうの市民が簡単に路頭に迷ってしまう時代>が、日本に訪れるとは。
 労働派遣法が憲法違反であることは当然で、政治も悪いが最悪はマスコミだ。利益のため人間を使い捨てにするメーカーが諸悪の根源であることは自明なのに、トップに責任追求のインタビューを行わない。高い広告費を失いたくないので、新聞テレビは巨悪を逃がす。<Drive Your Dreams> とは、悪い冗談だ。キャノンは、世を救う<観音様>の意味であるのを忘れていないか。
 また、毎日流れるホームレスや派遣切りのニュース、取材しているキャメラマンやディレクター自身が多くの場合派遣社員、もの凄い薄給で働かされているのも事実だ。赤字覚悟の制作費が続き、自殺した制作会社の社長がいる。

 1941年フランク・キャプラ監督の『群衆』(原題:Meet John Doe)。<John Doe>は無名の意味、身元不明の死体を呼んだりする。<John Doe来る!>の意か。
 経営不振になった新聞社が政界の黒幕に乗っ取られ、ベテラン社員たちが首になる。若造が、親のような社員たちに馘首を告げるジェスチャーは、今の時代笑えない。同じく首になった女性記者(バーバラ・スタンウィック)は、腹いせに記事をねつ造する。John Doeを名乗る男が、金がすべての世の中に抗議するため、クリスマスイブの夜、市庁舎から身を投げるという記事だ。
 ところが、この記事、予想外の反響を呼び州知事や市長を慌てさせる。バーバラは、記事を連載にし、John Doeを誰かに演じさせれば、新聞の売り上げが伸びると画策、マイナーリーグを首になりホームレス(この頃はホーボーね)に落ちぶれたゲーリー・クーパーをJohn Doeにでっち上げる。
 やがて、庶民の連帯を呼びかけるJohn Doeの訴えは、全米市民に熱狂的に迎えられるが・・・。

 マスコミを金の力で支配する政界の黒幕は、時代のヒーローが出てくれば票田獲得のため便乗し、不利になれば濡れ衣を着せ、大衆を煽動しヒーローを叩く。企業、政治家、マスコミの関係が恐ろしいほど、今の日本と変わらない。
 一方庶民の側は、「隣人を大切にしよう」と云うJohn Doeの訴えをまともに受け止め、生活は苦しくとも地域社会の人々がお互い思いやりを持てば、苦境を乗り切れることに気づいてくる。この当たりは山本周五郎『ちゃん』『かあちゃん』みたいである。

 本作は『オペラハット』「スミス都へ行く』『素晴しき哉、人生!』のキャプラ作品と同じく、資本主義がファシズムに行き着いた社会の実相を見事に描いている。60年以上前の映画だが大変面白い、でも作品の完成度は二の次。描かれている社会が2008年年末の日本そのまま、現在こそ必見の名作だと思う。

 「民衆を見くびるなよ(原語はわかりません)」と、政界の大物に投げつけるラストの市民の捨て台詞、当時の観客は喝采したんだろうなあ。

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2008年11月26日 (水)

『リダクティッド 真実の価値』 デ・パルマの告発状

 これはまたキテレツな作品である。既存の映画に似たような作風が見つからない。未見だが、監視カメラの映像だけで描いたジョージ・ルーカスの短編『THX1138』(学生時代の作品でロバート・デュバルは出ていない)に近いのかしら。まさに実験作である。全編をワンショットで繋いだ(ように見せた)ヒッチコックの『ロープ』、ハードボイルドの一人称を馬鹿正直に捉え、カメラアイを全編主人公の見た眼として描いた、ロバート・モンゴメリー『湖中の女』などと並ぶようなユニークさである。
 これを普通の劇映画のつもりで観ると駄作にしか思えないが、ブライアン・デ・パルマと云う優れた映画監督の本質が理解できれば、この問題作に込められた巧妙な狙いが見えてくる。

 ブライアン・デ・パルマ、1940年生まれ。コッポラやスコセッシと同世代。若いころリアルタイムで封切りを楽しみにして観た『キャリー』『愛のメモリー』『殺しのドレス』『ミッドナイトクロス』が大好きだ。なにより、ヒッチコック先生にならって、言葉を当てにしない映像の構成によるサスペンス技法が素晴しい。『キャリー』のプロムナイトでロープの先をカメラが蜿々たどっていくと臓物入りのバケツが見えるショット。『殺しのドレス』の美術館でアンジー・ディッキンソンを男が追いかけるカットバック。いかにも映画少年がそのまま監督になったような作風は、若いファンの心を掴んだ。
 テクニシャンのデ・パルマであるが、華麗なテクニックに溺れず、物語を分かり易く伝えていく映画監督の本道を決して踏み外さない。遊びながらも抑制をきかせることのできる大人の監督なのだ。
 だからこそ、大作の監督としてプロデューサーの信頼を得てきた。『アンタッチャブル』しかり『スカーフェイス』しかりで、デビッド・マメットやオリバー・ストーンの名脚本を得て、2作とも堂々たる名作に作り上げている。
 そして、デ・パルマがほかの売れっ子監督と大きく異なるのは、戦争をちゃんと市民の立場から評価できる健全な歴史観を持っていること。<戦争>なるものが市民同士の殺し合いでしかなく、<国家のために戦場で戦う>ことの嘘を見抜いている。コッポラやイーストウッド、オリバー・ストーンでさえ持っていない資質である。

 映画表現の達人であり、正しい戦争観を持っているデ・パルマのこの新作。きわめてユニークなのはキャメラアイのありかた。通常の映画は、原則としてキャメラの前で演じることによって成り立つ。キャメラは存在しない視点で、コメディでもないかぎり無視される。ところが、本作ではこの約束がない。すべての映像が2008年のアメリカに存在するさまざまな映像を通して描かれる。
 兵士の一人がUSC(南カリフォルニア大学:ルーカスら有名映画監督を輩出)の映画学科に進むために撮影するビデオ映像をはじめ、アメリカやイラク、アラブ圏のニュース、監視カメラ映像、フランスの映画監督によるドキュメンタリー、ゲリラのホームページの動画などを通してストーリーが語られる。映画が始まって15分くらいで<お約束>は見当がついたが、事実描写よりイメージ優先のようなフランス製ドキュメンタリーで、ヘンデル(かの『バリーリンドン』でも有名な)が流れてきたときは、正直さすがのデ・パルマも耄碌したのかと思った。しかし、この監督一筋縄ではいかない。
 音楽はラストの被害者たちのスチル写真だけ。ここではじめた劇映画としての音楽がレクイエムのように流れ、エンドタイトルがサイレントになる。黒澤『生きものの記録』みたいである。
 観終わって、監督はこの大変奇妙な映画をいったい<誰のために作ったのか>に考えが及んだ時、作り手の真意に気づき大いに驚いた。唸ってしまった。
 本作は完全にアメリカ国民だけに向けて作られた、外国人を初めらから計算に入れないローカルムービーである。アメリカで日常眼にする映像メディアで作られているから。通常のドラマ形式にしなかったのは、『カジュアリティーズ』の二番煎じを避けたというより、観客の心理を計算にいれて、観終わって映画館を出て日常生活に戻ったとき、観客にイラク情勢の現実のニュースが、<リダクティッド(修正)>されたものであることを思い出させ、報道されない現実を想像させるためだ。アメリカ国内のニュースがアメリカに有利な世界観でしか伝えていないことを気づかせるためなのである。映画館の中で、フィクションとして完結するより、ボディブローのように、じわじわと生活の中で真実に眼を向けさせる手法を選んだ訳だ。
 デ・パルマは、映画表現の形式さえもかなぐり捨てて、映画と云うマスメディアの持つ特性を生かして、アメリカの観客に<テロとの戦いが実は市民の虐殺でしかない>イラク侵略の惨状、悪行を告発しているのである。

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2008年10月19日 (日)

『シャーロック・ホームズの素敵な挑戦』  アディクション(依存症)映画の傑作

 多忙な時間をやりくりしたのに、映画館でツマラナイ作品を立て続けに観てしまうと、足を運ぶのがおっくうになる。さりとて、レンタルショップに行っても、今観たいレアな作品があまりない。しようがないので、録画したVHSに、なにかめぼしいものはないかと探してみたらありました。『シャーロック・ホームズの素敵な挑戦』、1976年製作。この作品、ホームズものに精通しているシャーロキアンや、長く映画を観てきたファンが喜ぶような極めて趣味性の強い作風で知られる。
 久しぶりに観たが、いやはや凄いものである。これまで感じていた<粋な映画>と云うイメージにおさまらない深さを感じた。アカデミー賞の脚色部門でノミネートされたわけである。

 原作は、ホームズもののパスティッシュ、ニコラス・メイヤー『7%の溶液』、ホームズが溺れていたコカインを意味している。コナン・ドイルがホームズものを書いたのは、この映画のような事実!があったから、本歌から逆算したら映画のような背景が想像できる、と云うお遊び精神から発想されている。
 天才的な推理力と強い正義感、ヴァイオリンやフェンシングの名手にして抜群の行動力で難事件を解決するクールなイメージのホームズを、コカイン中毒で被害妄想に陥っているヨレヨレの姿で登場させ、手に余ったワトソンが、ウィーンのジークムント・フロイトに治療を依頼し、かの地で事件に巻き込まれるというお話。あれだけ数々の難しい事件を背負った生活なら、天才でも少しぐらい精神に変調をきたしていたのでは、と云う着想が抜群。しかも、かのモリアティー教授が貧相な老人で、身に覚えのないことでホームズのストーカー被害に遭っているのだから笑える。
 シャーロキアンたちが、ほくそ笑むクスグリが織り込まれているようだが、当方は『四つの署名』『赤毛連盟』『バスカビル家の犬』『まだらの紐』、モリアティー教授の存在くらいしか知らない。

 スタッフとキャストも凄い。
 撮影オズワルド・モリス、美術ケン・アダム、音楽ジョン・アディソン。さらにオリヴィエとくれば、当時のイギリス映画界屈指の名人たちと云うより、ファンなら72年の『探偵<スルース>』を思い出さない方がおかしい。オズワルド・モリスのクラシカルな色調のルック、キューブリックのリアリズムに応えた『バリー・リンドン』のケン・アダム、『トム・ジョーンズ』や『探偵<スルース>』のクラシカルかつサスペンスフル、しかもコミカルなスコアが楽しいジョン・アディソン。
 監督はハーバート・ロス。振付師から監督になったロスは、粒よりの役者を揃え、うまい芝居を存分に引き出すオーソドックスな演出で、<70年代から80年代のウィリアム・ワイラー>のごとき存在だった。ニール・サイモン作品を多く手がけそのどれもが面白く、『愛と喝采の日々』『マグノリアの花たち』のような名作もある。
 
 キャスティングのトップがフロイト役のアラン・アーキンだから、当時でも配役の渋さは極まったようなもの。今年『リトル・ミス・サンシャイン』でやっと助演オスカーをとったこの人、代表作はキャリアの早い時期に集中している。『アメリカ上陸作戦』でソ連兵を、『愛すれど心さびしく』で聾唖の青年を、『暗くなるまで待って』ではサスペンス映画史上に残る殺人鬼を演じた。鼻にかかったような声色が印象的で、なにを演じても自然で実に巧い役者だ。この作品では、学会から認められず人種差別とも戦いながら、尊敬するホームズの治療に当たる、よき父親・夫で、心優しく行動的な名医を好演している。
 ワトソンにはロバート・デュバル。云わずと知れた名探偵を支える助手役、コルレオーネ家のコンシリオーリを長く勤めた?キャリアに相応しい。カントリー&ウェスタンの歌手役が素晴しい『テンダー・マーシー』(オスカー主演賞受賞)では、歌うばかりか何曲か作詞作曲までやってのけた芸達者。さぞご本人も大人しい性格かと思いきや、マイケル・ムーアがオスカーの授賞式でブッシュを批判した時、「ムーアをブートキャンプ(新兵訓練所)へぶちこんでやれ!」と発言、どちらかと云うとキルゴア大佐(『地獄の黙示録』)のメンタリティに近いのかもしれない。
 ホームズのニコール・ウィリアムソン、『エクスカリバー』くらいしか知らない。友人から教えたもらったのは、カメオ出演した『グッバイガール』。オフ・ブロードウェイの売れない役者リチャード・ドレイファスを映画に勧誘にくるハリウッドの映画監督オリバー・フライ役。
 ヒロインが、古風な顔立ちのバネッサ・レッドグレーブ、翌年『ジュリア』でオスカー助演賞受賞している。尾行するスパイに『キャバレー』で、これまたオスカー助演賞受賞のジョエル・グレイ。『レモ/第一の挑戦』で「ファーストフードとは、<早く死ぬ食べ物>の意味なのじゃよ」なんて説教するコリアン武道のお師匠さんを演じた。モリアティー教授にローレンス・オリヴィエ、ワトソン夫人にはサマンサ『コレクター』エッガーの贅沢さ。
 つまり、観客動員に強くアピールする面々ではないが、クオリティの高い芝居ができる連中ばかりを集め、シェークスピアものでも製作するような大真面目な構えで、このシャレたお話を作った訳である。

 それで、ホームズものや映画に詳しくないと面白くないのかと云えば、とんでもない。
 フロイト博士の部屋を見回して推理し、博士の生い立ちや人となりなどをズバリ言い当てたり、コカイン中毒で死にかけていたホームズが回復し、本来の自分を取り戻して事件を追いかけ、悪党と立ち回りまで演じて解決していく探偵映画の醍醐味を味わえる。それどころか、人間ドラマとしても感動的なストーリーになっている。以前はよく分からなかった<感動的な後味>の理由が、今回観て初めて理解できた。
 ホームズがコカイン中毒から回復していくプロセスが、21世紀の現在も通用する依存症の治療法と同じで、アルコールに限らない依存症の本質を正確に捉えた見識の高さに裏打ちされた物語であるからだ。

 ホームズに呼び出されたワトソンは、かの有名なベーカー街のアパートを訪ねる。食事もろくにとらず部屋に引きこもる名探偵は、友人の顔が信じられなくなっており、モリアティー教授が悪事を続け、命を狙われていると、ひどい不安神経症のホームズ。引き出し一杯のコカインを確認して少し落ち着きを取り戻す。この作品では、このような依存症者を見事に表現する描写が随所に出てくる。
 20年ほど前、テレビコマーシャルで、工藤夕貴が冷蔵庫に並んだ梅酒を前に「こうなっていると安心するの」とあったが、あれと同じ。酒を広告するために依存症者の心理状態をもってくるとは。
 ホームズを迎えたフロイト、「あなたのお兄様や友人は心から心配している。素晴しい頭脳と強い正義感のあなたを尊敬していたのに失望した。自分ではコカイン依存症にかかっていることを知っているくせに、忠実なワトソンを非難している」、本来のシャーロックホームズではない、と話すフロイトにホームズは認めざるを得ない。ここで、依存症治療のスタート地点である<病識を得る>、つまり患者本人が「自分は依存症と云う病にかかっている」ことを自覚する段階にたどり着く。
 「なかなかコカインから抜け出せない」と訴えるホームズに、「わたしはやりとげた。時間もかかるし苦しいが必ずできる」とフロイト。治療者ではなく、立ち直った依存症者の先輩としての顔も見せることによって希望を与える。
 体から薬物が一定濃度以下になると、体は薬物を補充させたくイライラや苦痛を覚える禁断症状・退薬症候が出てくる。ホームズの退薬症候に、フロイトが懐中時計を目の前で振り子にして催眠状態に導くのも面白い。
 眠らせておいて、2人の医師はホームズの荷物にコカインを探す。水を入れた瓶をダミーと見破り、鞄の裏底のスペースに大量のコカインを見つける。薬物を手に入れるためには、悪魔的と表現してよいほど知恵をめぐらせる依存症者の性(さが)がよく出ている。
 体から薬物を抜き取るのが次のステップで、幻聴幻想の中に『赤毛連盟』『バスカビル家の犬』『まだらの紐』が出てくるのがご愛嬌。薬物濃度が低くなると死亡する危険もあり、煩悶する姿は凄まじく英雄的でさえあるとは、ワトソンの医師ならではの感想。
 フロイトはワトソンに「ホームズのコカインは結果であって原因ではない」。アルコール依存症の場合も、酒が原因でさまざまな問題を引き起こすと思われがちだが、飲酒は結果であって飲まざるを得ない心理こそが原因である、そこを解決しないと依存の問題は終わらないことを説明している。
 体から薬物が出たホームズは、ワトソンにこれまでの非礼を詫びる。気持ちも落ち着き、次は体力をつけるために栄養を補給しなければならない。それまでコカイン中心に生活が回っていたので、生活から大きな関心事がなくなり食欲もわかず鬱状態になることもちゃんと表現している。
 依存症者が本当に大変なのはこれからで、一生再び薬物を摂取しない生活を送らなければならないからだ。
 先のことを考えては気力がなくなるので、薬物をとらない一日一日を重ねるしかない。そこで、アルコール依存症者(アル症)の場合、発案されたのが1930年代にアメリカで始まったAA(アルコホリック・アノ二マス)、アル症たちが集まって酒を飲まない日々を続けていくための自助グループである。
 フロイトは、コカイン依存から立ち直った歌姫ローラ・デブローが自殺未遂したことを知るや、ホームズを往診に同行させる。ホームズの心の空虚さを依存症仲間と会わせ、同じ悩みを共有させることで立ち直りの手段とするのは自助グループの狙いと重なる。デブロー嬢が、自らコカインを再摂取したのではなく、何者かに注射され自殺しようとした設定も巧い。再びコカインに溺れる生活ではなく、退薬症候を伴う苦しい身体依存からの脱却に再度挑戦するデブロー、ホームズは感動し事件に立ち向かう意欲を持ち始める。
 事件解決後、催眠状態からホームズがコカインに耽溺したきっけの謎や女性不信のが解ける。フロイトが名探偵となって、天下のシャーロック・ホームズの人生の秘密を解き明かすパスティッシュの名場面となっている。
 ラストは、コカイン依存と戦った依存症者同士のホームズとヒロインの旅立ちで、ロマンスの始まりを暗示して終わる。

 一見古色蒼然とした探偵ミステリーを装いながら、依存症で自分を見失った中年男がトラウマの実態を知り、女性不信を克服して人生の再出発に歩き出すと云う、きわめて現代的なテーマの人間ドラマなのである。だからこそ、お遊び色の濃い物語にもかかわらず、観るものにストーリーの面白さ以上の感慨をもたらしているのではと思う。

 薬物依存を扱った映画は、アル症なら『失われた週末』『酒とバラの日々』『男と女が愛する時』『リービング・ラスベガス』などが思い当たるが、依存症の本質と回復へのステップを正しく描いていることにおいてこの作品には及ばない。依存症映画の傑作でもあるのですね。
 

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2008年9月30日 (火)

『トランスアメリカ』 <小さな映画>の楽しさ

 トランスセクシュアル(生まれもった性に違和感を感じ性転換手術を望む)の中年男が、手術直前になって、若かりし<男時代>につき合っていた女性が生んでいた息子と珍道中するハメになるお話。
 低予算作品ながら、ユニークなアイディアを生かした見応え十分の佳作。『リトル・ミスサンシャイン』『サイドウェイ』『ジュノ』など、最近アメリカ映画はこの手の地味な作品の方が面白いなあ。
 なにより、ドラマがしっかりしています。

 成功の一番の要因は、ヒロイン(ヒーロー?)の造形。20年前のジュームズ・ウッヅを貧相にしたような風貌や筋肉質の二の腕、ぎこちない声色、困った時に見せる大股開きなど、フェリシティ・ハフマンが、実際のトランスセクシュアルにリサーチした存在感を見事に作り上げている。世評の高い『メゾン・ド・ヒミコ』、ちゃんとリサーチしたのか知らないが、入所者や施設のリアリティがなく興ざめでした。

 主人公の恋愛事情を扱わず、過去の人生に対する責任を全うしていくストーリーに絞り込み、ロードムービーにしているのも面白い。母親に自殺され継父に性的虐待を受け両刀使いになった息子を、素姓を開かせないまま、理解していこうと四苦八苦する。
 ストーリー展開や出会う人々とのドラマも自然。
 メキシコ料理店のウエイトレスで稼ぎながら、大学で学位をとり教職につきたいくらいだから、きわめて知的な主人公。刑務所暮らしを経験したネイティブアメリカンの中年男に上品な恋心を寄せられるシーンもホロっとくる。
 久しぶりに<女として>里帰りし両親を嘆かせ、愛人だと勘違いしたティーンエージャーが初孫だと分かり、俄然態度がかわる母親。教会のボランティアだと思っている主人公の優しさに息子が気がつき、愛情に応えるためベッドで言寄るおかしさ。

 <性のあり方>が多様なため巻き起こる騒動を、優しく見つめながら描いている。作り手の、登場人物たち個々人の背負った人生に対する敬意があってこそ作れた作品。

 ドリー・パートンの歌も素晴しい。

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2008年9月 2日 (火)

『ダークナイト』 西新宿のジョーカー

 1989年のティム・バートン監督『バットマン』は、渋谷パンテオンで観た。アメリカの大ヒットが社会現象化して、ニューヨークの劇場前でお客たちが歓声を上げているのがニュースで流れた。そのノリノリを体験したくて集まった満員のパンテオン、ジャック・ニコルソンの悪ふざけのようなオーバーアクトに、バットマンTシャツを着た日本の若者たちが面食らったようにシーンとなった呆然ぶりがやたらにオカシク、笑いをかみ殺したことがありました。
 次の『リターンズ』は秀作。ペンギンにダニー・デビートと云う危ないキャスティング、美しく芝居の巧いミシェル・ファイファーのキャットウーマンも秀逸。ミシェルがバットマンに手を掴まれ「いやん、痛〜い!」とスキを作り、ケリを入れるシーンなど傑作。
 バートンワールドの中で、化物たちの悲哀と悲劇が素晴しいファンタジーになっていた。

 本作。なんとも世知辛いバットマンになったものだ。
 ゴッサムシティを現在のニューヨークに模したイマジネーションの上に作り上げたファンタジーだが、バットマン・ジョーカー双方の超人ぶりがどの程度が分からないので、アーロン・エッカートとヒロインがジョーカーにいつの間にか捕まっていたり、お話がはなはだご都合主義で興を削ぐ。
 『ノーカントリー』のように、ヒールの思いのままにテロが続く状況と説明不足を<不条理が混迷する現在のアメリカを象徴している>などと解釈するコジツケ批評がどこからか聞こえてきそうな作風。
 ドラマをちゃんと読み解いた上で論理的に理解できる範疇を越えたこのような批評はうんざりです。

 まあ、いつの時代にもこの手の妄想批評は存在しておりまして、中でスゴイのが〜『七人の侍』は<日本の再軍備>を、『用心棒』は<米ソ両国の代理戦争>をシンボリックに伝えている〜てな表現です。
 そんな妄想なら、わたくしでもできる。

 1990年、西新宿に都庁庁舎が完成した時、CNNニュースで、丹下健三先生の手になる外観と大きなホールを紹介しながら放ったコメントが「みなさん、ここはゴサッムシティではありません!」。
 なんというCNNの予知能力! 今、ここの主のジョーカーのような狂気と気持ちの悪い笑顔を思うと、唸ってしまう。障害者や外国人・女性に対する差別、都民の税金を使った豪遊、「北朝鮮に自衛隊を派遣して拉致被害者を<『風とライオン』のように>に取りかえしてこい」。
 一方で、築地市場を毒の染み出る豊洲埋立地に、利権のために無理矢理移転させようとしている姿は、まさにペンギンだね!

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2008年8月 5日 (火)

『マンデラの名もなき看守』 背景が気にかかる

 アパルトヘイトを廃止に追い込んだ、南アフリカの元大統領ネルソン・マンデラが投獄・軟禁された1968年から30年間、検閲係として接していた看守のお話。
 監督が『ペレ』のビレ・アウグスト、看守にジョセフ・ファインズ妻にダイアン・クルーガー、正攻法で作られた力作。マンデラ釈放までの境遇や南アの白人社会の意識など大変興味深いし、当時の映画のような色調や風俗の映像も素晴しい。
 ただ、少年の頃黒人の友人がいたにもかかわらず差別する大人となった看守が、マンデラの人柄と情熱に感動していく交流のプロセスがイマイチ深くないので感動するまでいかない。
 20世紀後半の世界でこのような狂気の国家体制を支えていた産業や政治構造まで少しは触れないと説得力に欠ける。

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2008年7月30日 (水)

『アウェイ・フロム・ハー 君を想う』 ラーラも老けましたね

 元大学教授で70代半ばの夫が、おそらく一回りは下で60そこそこの年下女房の進む痴呆に対して、どこまで妻の気持ちに沿って生きられるかを描いたラブストーリー。夫婦の葛藤に絞り込んだ2時間近いドラマを大変面白く観せてしまう。
 痴呆の初期を、記憶が失なわれるだけではなく、別の人格になったり戻ったりする症状として捉えているのがユニーク。
 静けさとピュアな雪が大地を覆う冬に設定したのも、夫婦の孤独と静謐で繊細なドラマに相応しく、巧い。
 20代の女優がいきなり、このようなきっちりした作品を作り上げることに、英語圏映画界の底力を感じる。
 成功の要因は、ジュリー・クリスティ。相変わらず美しく、小柄で昔とほとんど変わらない体形を残している。身体障害を持った入居者に恋心を抱き、夫を段々思い出せなくなる哀れさは、このくらいの美しさがあってこそ。それにしても、ジュリーには雪が似合うのですね。
 ゴードン・ピンセントも、知的で苦悩をおもてに出さない芝居がベルイマン映画の役者みたいで大変巧い。
 夫がある婦人(オリンピア・デュカキス)を訪ねていくお話と痴呆の進行を交互に構成する、例によって時制操作のドラマ構成が、効果的なのかよく分からない。謎ときの面白さはあるが、カットバックする理由がはっきりしないので、エモーションが途切れてしまう。
 孤独なオリンピアとデキてしまう理由も、本心なのか、妻の希望を叶える手段なのか、一回観ただけでは分からなかった。それにしても、オリンピアのベッドシーン、アメリカの映画館では大爆笑だったでしょうね。

 また噛み付きますが、エンドロールの歌に訳詞が出ない。苦労して選んだ監督サラ・ポーリーに失礼だろう。
 

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2008年7月24日 (木)

『告発のとき』 補足 

 友人より米軍の実情を教えていただいた。『告発のとき』を読み解くに当たって大変役立つ情報です。
  アメリカのニュースから得た情報で、数字はおおまかなものだそうです。

〜「第二次世界大戦当時、最前線で敵に遭遇したアメリカ軍の歩兵の90パーセントは、出来れば相手を殺したくないと思いながら目くら撃ちをしていたそうですが、その後軍事教練は飛躍的に改善され、イラクでは逆に90パーセントの歩兵が、確実に相手を殺そうと狙い撃ち出来る様になったそうです。とくに、ヴァーチャルテレビゲーム形式の訓練を採用してからは、物乞いの振りをして近づいてきて爆発物を投げ込む少年ゲリラや、ブルガの下にAK自動小銃を隠し持って襲ってくる女性戦士などを、躊躇なく殺す訓練が充実。アメリカ兵1人1人が皆、ゴルゴ13の様に、後ろに立った相手を反射的に武器がなくても倒せる技を覚え込まされているそうですから、トミー・リー・ジョーンズ扮するハンク・ディアフィールド(Hank Deerfield)が信じていた様な、戦友は信頼出来る仲間というのは過去の幻影になりつつあり、誰でも見境なく殺しまくる危険この上ない兵器と化しているのです。これから先、5年後、10年後には、テキサス大学タワー事件の様な無差別乱射が、今まで以上に増える事必至です。ところで英語でdeerと言えば鹿の事ですが、同じ発音でスペルがちょっと違うdearには、親愛なるとか敬愛するという意味以外に、犠牲を払うという語彙があるのをご存じですか?」

 戦闘をテレビゲームみたいなものと騙されイラクへ派遣された兵士を<子供>に例えたのがよく理解できる。
 トミー・リー・ジョーンのハンク・ディアフィールド(Hank Deerfield)、英語が理解できる観客には<戦場で命を惜しまない>意味が伝わり、軍隊と戦争の大義を信じていたこの役に相応しいネーミングなわけ。

 

〜アメリカには、1973年まで徴兵制度が有りましたが、現在は休止状態。議会では復活させようという動きもありますが、数年前にも反対意見多数で否決となりました。しかし、第二次世界大戦当時は、全兵士の3分の1が志願兵だったと読んだことがあります。ところが、自ら進んで入隊したものの、いざ戦場に出てみると、例え戦争という状況下にあっても人殺しには抵抗を感じ、敵に向かって引き金を引けない、自分が殺されるのも嫌だから、結局は塹壕や物陰に隠れていたり、数少ない好戦的な兵士の後ろに付いて回るだけだったらしいです。
 徴兵制度廃止後は、基本的に志願兵のみということになりますが、職業軍人になりたくて志願するアメリカ在住の青年は少なく、ほとんどは大学に行きたいけれど学費がないので奨学金を受けるための貧困階級の青年や、アメリカでの市民権、永住権が欲しい移民の人たちです。それに加え、グラナダ侵攻やソマリア侵略、湾岸戦争やボスニア制圧、アフガニスタン、イラク派兵など有事には、志願兵だけでは足りない分を補う為に、軽犯罪者の前科を帳消しにする代わりに志願させるような司法取引も行われているとのことです。
 どちらにせよ、同じ志願兵でも、第二次世界大戦当時は反ファシズム、対ナチズムに燃える正義感に溢れた人たちであったのが、現代では、目的意識が全く違ってきているのは確かだと思います」

 情報の提供者について。
 プロの映画批評家でかつて東京でいくつかの有名な名画座の経営にたずさわっていた大変な見巧者。20代のころ「『コンバット』の日本での放映期間は第二次大戦より長い」と教えてくれたり、ロベール・アンリコのやデルフィーヌ・セイリッグ(トリュフォー『夜霧の恋人たち』の靴屋のマダム)のサインを持っていたり、『タクシードライバー』を真似て、殴り込むトラビスの秘密兵器である、袖の下から銃がスライドして飛び出す仕掛け(あんまりうまく作動しませんでしたが)を作ってしまうようなシネフィルです。

 

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2008年7月10日 (木)

『告発のとき』 反戦映画の傑作

 軍警察のOBで、既に長男デビッドに戦死された60代の父親が、イラクから帰還した次男マイケルが失踪したと知らされ、妻一人家に残し基地のある街で次男を探すお話。

 テーマと志の高さ、サスペンス映画としての面白さ、優れた人間描写、ドラマの深さ、芝居のクオリティ、すべてで傑作。アカデミーを初めとする主要な賞に作品賞としてノミネートされなかったのは、アメリカ社会にこのテーマと完成度を直視したくない風潮が厳然とあるからと考える。

 イラクの息子からの電話と残された息子の携帯電話の動画から謎ときが始まる。ベテランのトミー・リーと組むのが、新米刑事シャーリーズ・セロン。署長との不倫で出来た男の子を女手でひとつで育てるため、交通係から刑事に職場替えしてもらい同僚刑事からセクハラまがいのイジメを受ける毎日、帰還兵の夫のDVに苦しむ若妻の訴えに対してなすすべもない。このシーンが後で効いてくる。

 バラバラにされた上焼かれた遺体となって息子は発見される。現場検証するシャーリーズには、証拠保存用具をスーパーで買える日用品で代用できる知識もある。が、発見場所が基地の敷地内なので、軍警察の管轄となり手を引くはめに。

 知らせを受け遺体確認する母スーザン・サランドン、出番は少ないがさすがに巧い。

 トミー・リーは、公道で殺された後で基地の敷地内に運ばれバラバラにされたこと、目撃された車が、黄色の街灯では緑に見えても実際は青の車であったことを突き止める。この当たりはサスペンスとしてとても面白い。シャーリーズが感心しコンビができる。

 次男が麻薬密輸に関わった疑いが浮かび、麻薬がらみの前科があるヒスパニック系の戦友が容疑者となり捕り物になる。シャーリーズが格闘で負った鼻の傷に絆創膏を貼るなんて、まるで『チャイナタウン』である。
 アリバイがあったため直ぐに釈放されるが、トミー・リーにヒスパニックに対する偏見があるのが分かる。

 携帯電話から新たに修復された動画や、トップレスバーやチキン料理店の聞き込み、軍から提出された供述書のサインなどから真相に近づく。

 シャーリーズは、DV妻が夫に殺された現場で、子供は無事なのを知り泣く。また、MPが拘束した容疑者のひとりを執念で直接尋問し刺激した結果自殺される。映画は、このようなストーリーのポイントも淡々と進めていく。
 
 マイケルを刺し殺したのは、共にボスニアにも派兵された親友だった。元肉屋の仲間が切断した後焼却したと、父親を前にして静かに平然と語る。
 「たまたまこっちが殺したが、別の日なら逆にマイケルに殺されていた」と冷静に云われ、自分の息子も狂っていたことを理解する。
 次男が捕虜の傷に手を突っ込んで痛めつけた虐待を、親友はマイケルなりの<自己逃避>だと笑顔で説明する。

 おそらくベトナムにも参戦し<戦友同士は殺し合いをしない>と信じていたトミー・リーは、息子を戦地へ送り出した父親として、アメリカが行っている戦争の意味を初めて理解する。軍警察にいた男の理解と云う重みがある。

 事件に無関係だったヒスパニックの兵士に謝罪し、酒を飲み交わす場面もいい。ここで、次男がイラク派遣1週間で子供をひき殺したことを知り、動揺し泣き声で父親に電話してきたことも分かる。派兵当初はまだ正気だった次男が、戦闘に明け暮れるうちに捕虜虐待を楽しむ狂気に陥っていたのだ。

 原題『IN THE VALLY OF ELAH <エラの谷で>』のエラの谷は、映画でもたまに引き合いに出される小さなダビデ(デビッド)が巨人ゴリアテにいどんだ戦場。弱者が強者に勝利した意味でよく使われ、ジーン・ハックマンの市民派弁護士が巨大自動車メーカーを訴え出る『訴訟』にも出てきた。トミー・リーがシャーリーズの息子がデビッドだと知り、そう語る。恐らくトミー・リーが長男にデビッドと名づけたのも、この理由なのだろう。
 だがポール・ハギスの意図は違うことが、シャーリーズと息子の会話で分かる。
 息子「ダビデはまだ子供なのに、イスラエルの王様はなぜ戦争に行くことを許したの?」
 母親は「分からない」と答える。
 <IN THE VALLY OF ELAH>は、子供たちが送り込まれる殺戮の場の意味なのである。
 
 帰宅した翌日、トミー・リーは国旗をさかさまに掲揚していた学校の用務員に、息子が戦地から送った星条旗を逆さま<国の救難要請サイン>に掲揚させテープで固定する。彼の持つユーモアが生きた素晴しいシーン。
 
 ここまでならイラク出征兵士と家族の苦悩と云うアメリカでだけ通じる価値観の<ローカルムービー>である。ところが、ポール・ハギスは作家としてのモノが違う。
 ラストタイトルのメインスタッフキャストが終わると、息子マイクがひき殺したであろう?イラクの少年のスチル写真に「FOR THE CHILDREN』<子供たちのため>と謎めいた言葉を残す。
 この作品で出てきた<子供>は、マイケルと戦友たち、シャーリーズの息子であり、マイケルと替わって新しく入隊してきた若い兵士であり、マイケルに殺されたイラクの少年である。
 ポール・ハギスはここで、侵略の大義名分である<イラクの民主化のためテロリストと戦う>ことが実は市民同士の殺し合いでしかなく、しかも犠牲者の多くは最も弱い立場の、現在と未来の両国の子供たちで、この状況を今後も続けてよいのかと問いかけているのである。

 ホール・ハギスは、主人公トミー・リーに決して気持ちを語らせない。ストーリーの背景を観客に読み解かせることで、真意を理解してもらう方法をとっている。言葉でイラク戦争への疑義を表現できない状況を逆手にとった見事さ。

 これを観ると、ポール・ハギスが硫黄島2部作では、ストーリーテリングのテクニックだけを貸していたのがよく理解できる。『星条旗』の時制操作は、話の底の浅さを誤摩化す手段だったのではとも思える。

 余計ですが『ローリング・サンダー』と併映すれば面白いのにね。
 『ローリング・サンダー』は、ポール・シュレイダーが日本でヤクザ映画を観て影響され、シナリオにした『ザ・ヤクザ』『タクシードライバー』と並ぶ<殴り込み三部作(私が勝手に名づけているだけ)>の1本で、ベトナム帰りの若きトミー・リーがウィリアム・ディベインの助っ人として参加します。
 

 

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2008年7月 3日 (木)

『モンテーニュ通りのカフェ』 仏語翻訳者、お前もか

 東京の街殺しの狂気は留まることを知らない。文化遺産の日比谷の三信ビルが消えていた。昔ながらの店構えだったおでんの名店『新橋お多幸』が取り壊され移転すると云う。
 昼下がりの『神田まつや』で酒を飲みとぼんとしていると、『惑星ソラリス』のような気分になった。素晴しい店内は、ひょっとして昔を懐かしむ人々の想念が現出させているのでは、てな心持ちです。

 『モンテーニュ通りのカフェ』、なんの予備知識もなく観たので、初めはこれが新作か旧作が分からなかった。
 クロード・ブラッスールは中年のころとあまり変わっていないし、シネスコ・カラーのスクリーンに映し出されたパリの街角やホテルや劇場、カフェなどが、昔から映画に描かれたパリと変わっていなかったから。日本の街並を思うと羨ましいかぎり。モードに疎いと云われりゃ、それまでですが。
 『アメリカの夜』以来のダニが淡谷のり子のようになっていたのと、シドニー・ポラックの老け具合で最近の作品だと見当がついた次第。

 パリの有名な『バー・デ・テアトル』で働く野次馬精神旺盛な女の子(といっても30歳くらい)が狂言まわしとなって、人生のターニングポイントにさしかかったピアニストと妻、女優、古美術商と息子、劇場の管理人、それぞれの心模様を描いた秀作。
 音楽や芝居・美術品など人生を豊かにする<美しいもの>に憧れ、才能に恵まれ仕事にできた人、夢かなわず芸樹家のそばにいるだけで満足する人々が交錯する。シリアスさとコメディのバランスがよい。
 
 ベートーベンやシャンソンの良さもいい雰囲気を作り出しているが、また手抜き翻訳。
 懐かしやシャルル・アズナブールとおぼしき歌声が聴こえきても訳詞なし。ダニはジルベール・ベコーの大ファンの設定で、iPodかなにかでノリノリで踊っているにもかかわらず字幕はなし。
 この問題、白井佳夫編集長時代の『キネ旬』なら、看過していないんだけど。映画製作会社や配給会社の顔色をうかがい新作の否定的な評論を出さない、批評誌の使命を放棄して久しい現状では無理な注文でしょうね。
 


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2008年6月25日 (水)

『インディ・ジョーンズ クリスタルスカルの王国』 CGの復讐

 <クリスタルスカル>とは何かと思ったら水晶の髑髏(ドクロ)。素晴しい日本語があるではないか。『失われた聖櫃』『魔宮の伝説』『最後の聖戦』ときたのだから、ここは『水晶髑髏の謎』でしょうね。
 字幕まで<ドクロ>ではなく<スカル>としてあるのは困ったものである。戸田奈津子が悪いのか配給会社が押し付けたのか。

 パラマウントマークがケッサクな変化の仕方をして始まる冒頭はすこぶる好調。ロズウェル事件や水爆実験を絡めて、悪役集団を冷戦下のソ連にし、ヒールをオッカパの女将校にしたのは、さすが。まさかそれがケイト・ブランシェットなんて贅沢の極みである。ロシア語なまりの英語で、実に気持ちよく演じている。この人の芸の幅の広いこと!
 ひと騒動あって大学に一度帰る。007(<ダブルオーセブン>ではなく<ゼロゼロナナ>ね)と同じ、『男はつらいよ』でも同じですが。デンホルム・エリオットの写真はシンミリくるが、シニアはまでそうしたのは、いかがなものか。老いて矍鑠、世界のどこかで冒険していることにでもしたほうがよかったのでは。
 マーロン・ブランド『乱暴者(あばれもの)』と同じ格好をした若者を出すのも巧い。これで、新旧映画ファンをニンマリさせる。映画の歴史をおおまかに知っていればピンとくるパロディです。これがアメリカで通用するのがファンの教養の広さ。
 話がナスカにいくと、あまり面白くなくなる。<ドクロ争奪のおっかけ>も<からくり遺跡>もCG(コンピュータグラフィクス)頼りになっているから。CGは諸刃の刃で、どのような映像でも可能なかわり、アニメーションのような映像展開になることで臨場感に欠けてくる。
 『失われた聖櫃』のボールのような大岩に追いかけられるのも、『魔宮の伝説』の吊り橋も実写だからこその迫力。『魔宮の伝説』のトロッコチェースも、まだクレイアニメーション(模型の駒撮り)である。
 CGを駆使しているつもりが、CGに使われたような印象です。

 カレン・アレンが50代半ばにしては若く見えるので、マリオンが復活したのでしょう。この役、スピルバーグは初めデブラ・ウィンガーに持っていったら、子供じみたお話で受けなかったらしい。しゃがれ声で美しいデブラだったら、もっとおきゃんで華やかなマリオンになっていたでしょうね。
 
 チャンバラまでやっているのに、せっかくのケイト・ブランシェットもあまり見せ場がなく、ジョン・ハートは役不足、本人の資質より劣る役ってこと。もったいない。

 クライマックスもお子様ランチ。

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2008年6月23日 (月)

『JUNO/ジュノ』 妊娠ハードボイルドコメディ

  新鮮でユニークな青春映画の秀作。
 16歳の女子高生が初体験で妊娠し、お腹の子をリッチな作曲家夫婦の里親に出すことに決めるが・・・。

 ブログで文才を認められ、ストリッパーの経験もある30歳のディアブロ・コディが初めて書いたシナリオがまず優秀。
 77年が黄金時代と云うパンクロック狂で、スプラッタームービー好きヒロイン・ジュノのキャラクターが抜群に面白い。シニカルな台詞が現在のアメリカ女子高生の生活感に溢れているらしく、なんだかちゃきちゃきの下町娘の雰囲気。
 『アマゾンの半魚人』だの『サスペリア』だの昔の映画をよく知っている。<『シービスケット』のような大量のオシッコ>とか、<ダイアナ・ロスのように根性が悪い>てな感じのユーモアも凄い。
 演じるエレン・ペイジは20歳らしいが、ホレボレするほど巧い。
 自らが招いた難事に、彼女なりにクールに(<かっこいい>ではなく<冷静に>と云う意味)対処してゆく 。まさにハードボイルドですね。
 ここで云うハードボイルドとは、主人公の心理より行動を描くことで人物像を表現しながら物語を進める手法とでもいいましょうか。例えば『用心棒』『椿三十郎』のような作品。
 意外に物わかりがよい実父やボーイフレンドの鈍いリアクション、親友の少し野次馬的な対応、無礼な放射線技師に怒る継母、ジュノに恋心を抱く中年作曲家など、既存のアメリカ映画にはないリアリティを感じる。予想しがちな展開をいい意味で裏切るストーリーである
 これはシナリオライター・コディが実際に見聞した人々をモデルにしているからではないか。
 親友は、中年好みらしく部屋の壁はクリントンのヌードやチャールズ皇太子らオジサンの写真で埋めつくしているし、好みの中年教師をファーストネームで呼び、「ウディ・アレンっていいですね」と言い寄ったりしている。

 リアルさと人間を見る眼の暖かさの、絶妙なバランスが素晴しい。少し風変わりであっても、16歳の少女が誠実に考えた末の行動を認めている視点の優しさでもある。

 ただ、映画のようなラストになるにしても、ヒロインの<母性の目覚め>に触れないのは、よく分からない。そんなものなのだろうか。

 ティーンエージャーの妊娠と云う、一見奇妙なシナリオを書かせ、オスカー候補になるような女優を探し出して、7億円の低予算で上質のエンターテインメントに作り上げた製作スタッフと、全米2000館に拡大興行させ240億円を売り上げた配給システムは、日本の映画人にとって羨望の世界。
 
 リメイクが多いとは云え、アメリカ映画界の凄さですね。

 唯一の文句は例によって翻訳者の怠慢。四季に分けた構成で各シーケンス頭に歌が流れるが、その訳のいくつかを出さない。LYRICS ON DEMANDでちょっと見たら、やはり歌詞はリンクしているのですよ。ひでえもんです。
 ミュージカルナンバーで歌詞が出なかったら、みなさん怒りませんか?
 
 

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2008年6月 2日 (月)

『チャーリー・ウィルソンズ・ウォー』 西部劇じゃあるまいし

 女好き下院議員が、クラスター爆弾で手足をなくしたアフガニスタンの子供たちに衝撃を受け、原因はソ連軍に対抗できないアフガンの貧弱な兵器だと考え、熱心なロビー活動の結果、アフガン支援の予算を獲得、ソ連軍を撤退させてメデタシメデタシと云うお話。
 
 プロデューサーを担当したトム・ハンクスは、『フォレスト・ガンプ』『プライベイト・ライアン』の出演動機は知らないが、アメリカの学校で習った世界観を疑いもせず信じ込んでいるのでしょうね。

 「西部劇じゃあるまいし」
 アメリカや日本などで信じられている<タリバン=悪、北部同盟=善>のアフガン観について、20年以上アフガニスタンで医療活動を続けているペシャワール会の中村哲が吐き捨てるように云った台詞。

 『キャッチ22』のマイク・ニコルズにして、このありさま。

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2008年5月29日 (木)

『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』 水っぽい

 評判の『マグノリア』は未見で、ポール・トーマス・アンダーソン作品を初めて観た。
 金を探していて石油を掘り当てた強欲無教養な山師の一代記。無駄に長過ぎです。ドラマそのものは面白いが、もったいぶった長い描写が多すぎ。水増し感がする。

 長いカットを多用しようが、細かく刻んだ作風だろうが、要は話が面白く、なっとくできるテクニックなら楽しく観てしまうが、この作品には妙な気取りしか感じなかった。

 長いカットの名作、溝口健二『西鶴一代女』でもアンゲロプロス『旅芸人の記録』でも、長い時間のカットでなくては語れない内容であり、その効果が素晴しく出ていると思うが、この作品ではテクニックの意味がよく分からない。

 ラストに<ロバート・アルトマンに捧ぐ>と出る。アメリカのフィルムメーカ−の中にたまに見かける<映画作家コンプレックス>があるのでしょうね。
 アルトマンは群像を長いカットで切り取る作風を確立して独自の道を切り開いた。
 遺作『今宵、フィッツジェラルド劇場で』でも、ラジオのカントリー番組に関わる人々を描いて、見事な雰囲気を作り上げていた。長いカットでも、芝居のアンサンブルや、コミカルなラジオショーの現場、カントリーの演奏などを観せ、一瞬一瞬が素晴しいスペクタクルになっていた。
 アメリカのフィルムメーカーでは、珍しく作家扱いされるアルトマンがお好きなのは分かるが、この作品に関しては師匠のテクニックに遠く及びません。

 作家扱いされたいのは、分かりますが、なんだかなあ。

 作風と云うものは、ドラマを自分流に描いた結果、自然に出てくるものである。ヒチコック、フェリーニ、ベルイマン、小津、黒澤、トリュフォ、などなど、すべてそう。
 現在のアメリカで、<タッチ>と名前の後につけられるほど個性的なフィルムメーカーは、ウディ・アレンとティム・バートンだけだと思う。コーエン兄弟は、どこが優れているのか分かりません。好みの問題でもあるのでしょうがね。

 本作のような気取った映画を観ると、監督は観客ではなく、映画祭の審査員や自分を高く評価してくれる批評家の気に入るように作っているのではないかと考えてしまう。
 そのような観客を二の次にするような監督が、世界中に増えてきた。
 と思っていたら、こんな記事があった。

 「得るものなし。映画として、面白くなくすこぶる退屈。彼は批評家のために映画を作っている」
 云った人は巨匠イングマル・ベルイマン、云われた方はゴダール。大笑いしました。
 ちなみにベルイマンは『マグノリア』を絶賛しています。
 

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2008年4月29日 (火)

『大いなる陰謀』 ローカルムービー

 ロバート・レッドフォード監督作品は、『普通の人々』『ミラグロ』『リバー・ランズ・スルー・イット(ひでえ邦題)』『クイズショー』『モンタナの風に吹かれて』『バガー・ヴァンスの伝説』 それぞれ面白かった。特に『モンタナ』は悠然としたタッチで、しみじみとした情感の大人の映画、傑作だと思う。
 レッドフォードタッチは、アメリカ映画の伝統でもある、奇をてらわない正攻法の演出で、生真面目な人柄だと思う。
  
 ところが、この新作、過去の作品とはずいぶんおもむきが違う。
 いつもは、厳選した食材をしかるべき料理法で、誰もが美味しく味わえるように、じっくり素材の旨味を引き出していたシェフに、産地直送の素材にあまり手を加えない料理を食べさせられた印象がした。慣れない味で妙な食感なのだ。

 お話は3つが平行して描かれる。
 ひとつは、ウエストポイント(『長い灰色の線』が懐かしい)とハーバードを優秀な成績で出た共和党のホープの上院議員が、女性テレビキャスターに、世の中厭戦ムードなので、アフガンの新しい戦闘を支持するための報道をうながすお話。
 ふたつめは、大学の近代史?の教授が、ノンポリ(死語?)でクールな学生に、貧しい家庭出の二人の学生が志願入隊した経緯を語る話。
 それらに、ふたりが参加したアフガンの戦闘が交錯する構成。

 このストーリー、分かりにくくあまり面白いものではない。
 正統派レッドフォードの腕が落ちたのか、手を抜いたのか。そうではないと思う。日本人が観て面白くなくても、アメリカ人にとって切実なテーマをリアルな方法で描いているような気がする。
 上院議員、キャスター、大学教授、学生、それぞれ生身の人間、キャラクターと云うより立場、視点を借りて、アメリカ軍の派兵と国家に対する国民の義務などのあり方を議論するための課題を提供しているのだ。
 この作品の価値観は、世界どこでも通用するものではなく、アメリカ国内限定のもの。
 産地の人間には美味しくても、慣れないものにとって、美味しくないのは、当たり前。
 
 このような、限られたエリア、特定の地域だけにしか通じない価値観を前提にした映画を、かってに<ローカルムービー>と名付けている。

 映画が基本的に自国民を対象に作られている以上、喜怒哀楽の民族性の違いなどから、他国民には理解されにくい作品に仕上がることがあるわけだ。ローカルムービーを通して、作られた国の本性を知ることが出来る。

 アメリカの場合、戦争映画や『フォレストガンプ』などの戦争が関わる作品のほとんどが、ローカルムービー。『硫黄島から手紙』の時にも書いたが、戦争は国民同士の殺戮ではなく、<国家のため戦場で兵士が戦う>価値観から抜け出すことができないから。
 理由は、戦争とは他国に出かけて行うもので、911以外に自国を戦場としたことがほとんどなく、兵士ではない民間人の犠牲者が最も多くなる現実を知らないから。
 その点、ヨーロッパ各国は違う。<国家のため戦場で兵士が戦う>戦争観がインチキなくらい、世間にちゃんと認められている。
 『大いなる幻影』は云うに及ばず、最近では『戦場のアリア』なんて傑作も作られている。

 『プラトーン』
 アメリカ人が観たら感動的かも知れないが、ベトナム人が観ればバカバカしいお話。戦前の『五人の斥候兵』と同じテーマで、侵略された側の心情はお構いなし。
 『ディアハンター』
 ロシアンルーレットを強要するベトナム人と、はるばる太平洋を越えて他国民を殺戮に来たアメリカ兵のどちらが野蛮なのか。
 『地獄の黙示録』
 戦争の狂気を描いたと云うが、画面に出てくるベトナムの子供たちを無視するシナリオと製作態度そのものが狂気ではないのか。

 ベトナム戦争もので、ローカルムービーに堕さなかったのは、知っている限り、ブライアン・デ・パルマ『カジュアリティーズ』くらいなものである。

 閑話休題。
 レッドフォードは、サンダンス映画祭などを通じて、ちゃんとそのへんは承知していると思う。
 『大いなる陰謀』は、レッドフォードが世界事情に通じているとは思えないアメリカ世論のレベルまで下がって、観客が理解しやすいように、アメリカ人好みの味付けをして、問題提起している。完成度を無視しても、訴えたいテーマなのだろう。
 作品がアンバランスなだけに、よけいレッドフォードの危機感を感じる。
 
 

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2008年4月27日 (日)

『フィクサー』 社会派クルーニーは面白い

 『グッドナイト&グッドラック』『シリアナ』に続く、ジョージ・クルーニー製作主演、お得意の社会派エンターテインメント。この傾向、今どき大変貴重。天は二物を与えるんですね。
 スタッフ600人を抱える大手法律事務所。表に出せない事件のもみ消し専門役(フィクサーと云うらしい)の<マイケル・クレイトン(原題)>クルーニーが主人公。クライアントの大手農薬メーカーが、健康被害?の集団訴訟の対応にあくせくしている時、精神安定剤に依存的になっている先輩弁護士が突如奇矯な行動に出る一方で、農薬メーカーの女性法務部長も原告との和解を前にストレスがピークになっている・・・。
 まるで、ジョン・グリシャムのリーガル・サスペンスみたいお話で、ある事件をきっかけに、物語は過去に遡って展開していく。

 親戚の借金を肩代わりした結果、怖い筋から借りた金が返せなくなりそうなクルーニー、分かれた妻の元にいる息子とのことや、行方不明の先輩弁護士の謎などがからむが、ストーリーのエンジンのかかりがイマイチよくない印象がした。
 先輩弁護士は巧いトム・ウィルキンソン、貪欲な弁護士が社会正義に目覚める、とても面白いキャラなのに描き方が中途半端で、もったいないような気がする。
 ラストの決め方が素晴しいだけに、人間ドラマとして、もっと盛り上がってもよかったのでは、と感じた。

 オスカーを獲ったティルダ・スウィントンが異様な迫力。知性と演技力に恵まれた西洋風の伊東美咲。シナリオを普通に演じただけで、とても演技賞など獲れる役ではないから。
 ラストの対決など、この女優のイマジネーションの凄さがよく出ている。腋の汗がティルダのアイディアだったら、なお凄い。『ジュリア』でジェーン・フォンダをくいそうな迫力だった、出始めの頃のメリル・ストリープみたい。40代の半ばを過ぎているのに若くて美しい。

 余計ですが、クルーニーは、ケーリー・グランドの雰囲気がある。『北北西に進路を取れ』『シャレード』のような粋なコメディサスペンスも似合うと思う。
 


 

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『つぐない』 脚色で損

 第二次大戦中のイギリス、貴族の娘と使用人が恋仲になるが、娘の妹が嫉妬してややこしくなるお話。
 キーラ・ナイトレイ、ジェームス・マカヴォイ、いずれも巧い役者で、面白いお話なのだが、目的不明の、時制を行き来する構成がなんとも興ざめ。原作通りなのかも知れないが、その都度情緒が途切れて、戸惑ってしまう。
 ちゃんと換骨奪胎していただきたかった。

 ダンケルクのワンカットも、そこだけ表現が突出しているので、気になってしょうがない。撮影時間を節約したのでしょうが。その割にワンカットの効果があったとは思えないだが。

 ラスト、貫禄のヴァネッサ・レッドグレーブが、さらっていきます。

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2008年4月23日 (水)

『ペネロビ』 そんなに変なお鼻?

 ブタのような鼻に生まれついた少女のロマンス。
 この鼻、絶叫とともに逃げ出すほどの異形だろうか。それだと、アジア人の多くも<ペネロピ>になってしまう。云っちゃなんだが、クリスチーナ・リッチの素顔より、ビフォーに魅力を感じる人も多いのでは。
 ファンタジーは、異空間の雰囲気を観るものに納得させてもらわなくては楽しめない。肝心の設定が、これじゃ、面白くも何ともない。まさか、アジア人への偏見があるとも思えないが。
 観ながらつらつら考えたことは、同じようなテーマの、ティム・バートン『シザーハンズ』が素晴しかったこと、名画座でスティーブ・マーティン『ロクサーヌ』、三船敏郎『或る剣豪の生涯』のシラノ・ド・ベルジュラックものと併映すれば粋なもんだ、てなことでした。

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2008年4月20日 (日)

『スルース』 オリジナルを先に観ないと損!!

 オリジナル『探偵<スルース>』は、70年代後半名画座で繰り返し観た。
 作劇に大きな仕掛けがあるこの作品の面白さは、本格推理小説の楽しみと似ている。再見したら、おもわず唸るような伏線もある。
 例えば、メインタイトルが嘘である。どう嘘かは、観た後で初めて分かる。映画の長い歴史の中で、メインタイトルで故意に嘘をついている映画は、今のところ知らない。このリメイクも、ならっていません。真似た作品はあるかも。
 第二幕の初め、老作家オリビエが一人で楽しそうに酒かなにかを飲んでいた?場面、ラジオから流れる曲は、コール・ポーター『Anything Goes』。『インディー・ジョーンズ 魔宮の伝説』のオープニングでケイト・キャプショーが歌って踊った有名な曲。意味は<なんでもあり>!。
 オリビエは、第一幕を思い出し、意味深な曲名にほくそ笑んでいるのですね。
 ところが、その後『Anything Goes』の意味が違ってくる・・・。

 リメイクは、『アルフィー』でもマイケル・ケインの当り役を演じたジュード・ロウが製作したということで、かなり期待したが失望。
 ヒッチコックのテイストでもある<笑いと恐怖は紙一重>のオリジナルの精神が生かされていず、なんだか、前作の面白さがすっかり抜け落ちた感じ。
 オリビエの迷路もある大邸宅、ゲームや小道具の数々など、それだけ観たさに名画座に通った友人がいたくらい。
 ハロルド・ピンターは、ずいぶん昔に観た、ジョセフ・ロージー『できごと』『恋』で記憶しているが、よくよく考えると、心理戦なんかはお得意かもしれないが、洒落っ気とは無縁の人なのでは。
 ノーベル賞のご威光か、プロデューサーのロウも口出しできなかったのかしら。
 ケネス・ブラナーも、斜に構えた演出でせっかくの名優の芝居を堪能させてくれなく、野暮です。

 ジュンク堂にあったVHSも今はなく、オリジナルで口直しもできない。
 FOX さん、DVDを出してください。

 『椿三十郎』と云いこれと云い、オリジナルを知らずにリメイクを先に観た映画ファンこそ、可哀想である。
 せめて、これを機会に、オリジナルを是非上映していただきたい。

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2008年4月10日 (木)

『父親たちの星条旗』『硫黄島からの手紙』 <反負け戦>映画2本立て

 脚本ポール・ハギス監督クリント・イーストウッドだけであれば、アメリカの戦争映画と云えども、そこそこ期待もできたが、スピルバーグがからむと、もう眉唾です。要注意。
 スピ氏の戦争観世界観たるや、ジョージ・ブッシュのそれとたいして変わらないからだ。

 『シンドラーのリスト』
 強制収容所の人々をナチから金で買うことで救った実業家の実話。
 <ドキュメンタリーのようにリアル>に虐殺を表現したつもりだろうが、<テクニシャン、テクニックに溺れた>結果、ホロコーストを見せ物にしてしまった。
 頭を撃ち抜かれるような残虐シーンを嬉々として再現している。ゲットーに連行されるシーンも、手持ちのキャメラアイがナチのニュース映画班のようで、スピ氏はからずも、ナチに加担したような表現になっている。
 全編が被害者側の事情にあまり関心を示さず、ナチ将校に興味をもったり、逆に音楽などでユダヤの民族性を強調したり、監督がホロコーストの意味を理解しているとは思えないのだ。
 ラストの献花シーンなど、歴史に関して無知ぶりが露呈している。
 ビリー・ワイルダーやシドニー・ルメットあたりが賞賛するのは、親族らが直接の被害者で客観的に評価できないからで、問題はイスラエルに気兼ねするアメリカ世論。
 アメリカマーケットの人気歴史観を読み切ったスピ氏の、ビジネスマンとして優秀さを証明しているとは云えます。
 
 『プライベート・ライアン』
 兄弟で唯一生き残った息子を戦場で探し出して母親の元へ返せ。馬鹿馬鹿しい軍隊の価値観を真に受けた、靖国史観のような馬鹿馬鹿しいお話。この映画、たしか軍隊から賞を受けている。
 天才的なテクニックで描いた上陸作戦と戦車戦だけを、アクションスプラッターとして楽しむだけの作品。結局、これがやりたかったんでしょうね。
 
 『ミュンヘン』
 ゴルダ・メイアの報復テロを再現したお話で、楽しそうに殺害シーンを描き、分かったような分からないようなエンドにした作品。

 そのようなスピ氏が商売の責任を負っていることは、硫黄島2部作の限界を示している。
 
 反戦映画が、戦争そのものを否定する作品を意味するのであれば、この2作は反戦映画ではない。戦争が過酷だ、辛い目に合うから戦闘は嫌だ、殺されなければそれでよい、そういう視点なのである。つまり、勝てばよいのであって、負け戦に反対しているだけだ。
 イラク侵略反対運動の大半の理由<国民の犠牲者が増えるので止めましょう>と同じ。わざわざ他国を侵略した3000人だかのアメリカ兵の犠牲者がかわいそうで、生活の場で殺された8万人のイラク国民のことはどうでもいい、と云った戦争観と同じである。
 
 『星条旗』では、事実に反し英雄に祭り上げられた苦悩などを物語る。<戦闘に英雄が存在する>ことを前提にしている価値観である。では、英雄とは、どのような存在か。勝利に貢献した兵士が英雄であるなら、敵兵を多く殺した兵士も英雄の一人である。敵兵を外国の市民と考えないで、殺してもよい対象とする視点である。
 それなら、国債イベントのスタッフの「予算がないと戦争ができない」が、実にもっともである。国債を集め、最前線に武器弾薬を送らないと犠牲者が増えるわけだから。

 最近はやりの時系列をバラバラにして再構成する作劇が絶妙だが、<戦勝国の兵士も過酷な体験で精神的肉体的な傷を負っている>、60年前の『我等が生涯の最良の年』と変わらない戦争観を今風にリニューアルしただけと、勘ぐってしまう。

 この2作、特に『硫黄島』が企画されたのは、日本が大きなマーケットであることと、沖縄戦のように<市民が巻き込まれ惨殺される>戦闘の現実を表現しなくて済むからである。戦争とは殺戮し合うのではなく、<国家のため戦場で兵士同士が戦う>古典的な戦争のイメージを表現するのに、砂浜がピッタリなのですね。

 <国家のため戦場で兵士同士が戦う>、国家が国民を戦闘に駆り立てるために必要な考え方であり、生き残ったものや家族にとっても、すがりつきたい価値観である。

 『硫黄島』を観ていると、部下思いながら最後は自殺突撃に走る大日本帝国軍人の姿を借りて、国家のために命を落とす決断を、アメリカが讃えているようにも感じる。

 栗林中将の変心以外はよく出来た脚本、優れた俳優陣、手堅い演出、レクイエムのようなイーストウッド自身の音楽も素晴しい分、アメリカの古くさい戦争観がかえって印象に残った。

 この作品、なにが驚いたと云って、顕彰碑の揮毫が岸信介だったこと。
 ノルマンディーに元ナチ幹部がサインした顕彰碑があるようなものである。
 <生きて虜囚の辱めを受けず>、『戦陣訓』東条英機政府の中枢にいた人間である。日本そうぐるみの自殺を強いた思想の張本人のもと仲間である。戦後、<鬼畜米英>が権力を握るとすり寄って、首相にまでなったファシストだ。岸の生き方を見ていると、ファシストが右か左の思想の問題ではなく、権力側に付きさえすればよい最低の生き方なのだと、大変よく分かる。
 この揮毫に至った経緯を物語った方が、戦争と云う国家的な人災の真実がよく分かるのではと考えてしまう。


 

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2008年3月25日 (火)

『ぜんぶ、フィデルのせい』 カストロもクシャミ

 映画は予備知識なく白紙で観るものである。
 キューバ関連のドキュメンタリーかと思いきや、とても面白いフランスの劇映画だった。

 70年パリ。フェミニズムに熱心なライターの母、スペイン出身でチリのアジェンデ支援に奔走する弁護士を父に持った10歳くらいの少女が、千客万来の我が家の日常に目を白黒させながら、自分の価値観を見つけていくお話。
 気難しげな表情の主人公が、大変魅力的。この少女の目を通して両親やお手伝いさんたちの言動が描かれる。
 <コミュニスト><核爆弾><団結>などの言葉に対する反応やお手伝いさんたちとの会話も面白い。そのお手伝いさん、キューバ革命で祖国を追われた中年女、ギリシャ人、ベトナム人と替わり、それぞれのお国柄もうかがえる。

 キリスト教系の学校なのに、家庭の事情で宗教の授業に参加しない自由があるのもフランスらしい。東京都とえらい違いである。

 子供が自然に見えるのは、演技や演出のよさばかりではなく、子供なりにも考える存在として接する社会のためだと思う。知的な家庭と云う条件を考慮にいれても。
 親子が自説を理屈で云いたいだけ云い合って仲直りなんて、いいものです。
 子供に子供らしさを押し付けない、感動を売り物にしない節度が、ここちよい。

 監督がなんとコスタ・ガブラスの娘。なるほど、自身の家庭環境が投影されているわけだ。

 『モーターサイクル・ダイアリーズ』『ぜんぶ、フィデルのせい』と妙なしりとりで続くと、『サンチャゴに雨が降る』『ミッシング』(もちろんガブラスの)あたりが観たくなった。
 
 

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2008年3月15日 (土)

『ノーカントリー』 正気を疑う

 後味の悪いアクションホラーに過ぎない。
 パゾリーニ『ソドムの市』のように、製作者の正気を疑う。

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2008年3月 1日 (土)

『いつか眠りにつく前に』 クレアがお気の毒

 バネッサ・レッドグレーブ、トニ・コレット、メリル・ストリープ、おつきあい程度のグレン・クローズら芸達者が集った作品。
 観ている間、ジンネマン『ジュリア』でバネッサ・レッドグレーブの娘時代を演じたリサ・ペリカンって女優さんは今、どうしているのだろうと考えていた。それほど、クレア・デインズが見劣りする。
 ここ数年、急に美しくなったクレアだが、相手が悪すぎた。
 3人の巧いこと。バネッサとメリルの芝居だけで入場料の価値あります。

 20年ほど前、メリル・ストリープとグレン・クローズは、顔の骨格と雰囲気が似ているな、と思ったことがある。こんな形の共演とは嬉しい限り。

 メリルの若い頃を実の娘が演じている。この一家、驚くまいことか、10年くらい前北九州市の<わっしょい100万夏祭り>のパレードに出ています。
 メリルの旦那ガマーさんが金属のオブジェを制作する芸術家で、北九州市がガマーさんに作品を依頼した縁で、除幕式に招待したとか。その頃、ガマー一家は、湯布院温泉でたびたび休日を楽しんでいたらしいです。

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2008年2月26日 (火)

『潜水服は蝶の夢を見る』 原作がもったいない 

 歴史的実験作『湖中の女』の<あれ>を復活させたのかと思いきや、中途半端でした。
 眼球と瞼くらいしか動かせない障害を負った男の苦悩だが、主観映像と云う<奇手>を多用しても、人間が描けるとは限らない、そんな印象。
 なにせ、主人公のこれまでの人生や人間関係をちゃんと説明するより、監督の自己満足のような主観映像に時間を裂いているから。
 実話がベースと聞いてびっくり。
 瞼の動きだけで本一冊書いたという事実がもったいないです。いわゆる<見た眼>がメインでも、面白く構成してくれなくては。
 いっそ、客観的な視点で表現したほうが、感動的になっていたでしょうに。
 『奇跡の人』が優れているのは、ヘレン・ケラーに超人的な能力が芽生える様子を客観的な表現で描いたから。

 こういった、ドラマとしての変化球が、最近の<奇手>好きな映画祭の審査委員に喜ばれそうなことは分かります。

 ジャン・ピエール・カッセルが久しぶりだったのと、マックス・フォン・シドーがフランス語でも芝居すること、トリュフォーの名作の音楽をパクってそれらしい映像を重ねていたのと、ルルドがけっこう俗っぽい街だというのが面白かった程度。

 アカデミー賞ノミネート作らしいけど、なんてことない。かつて、『ユージュアル・サスペクツ』なんて、トンデモ作品が受賞しているくらいですから。

 

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2008年2月21日 (木)

シェイファー兄弟

 KBCシネマのラインナップを見ていたら、近々『スルース』が公開されるらしい。傑作ミステリー『探偵<スルース>』のリメイク。
 傑作と書いているからといって、いや、だからこそ、くれぐれも旧作の情報などを知ろうとしないように。白紙のまま鑑賞しないと、入場料損します。
 昔はミステリーの傑作がロードショー公開される際、途中で入るのを禁止したり・・・、いけません、余計なことを書きそう。
 では、この作者のこと。アンソニー・シェイファー。ヒッチコック『フレンジー』、ルメット『オリエント急行殺人事件』(『クレジットにはない』とIMDBにある)、ギラーミン『ナイル殺人事件』などの脚色でも分かるようにミステリーがお得意。
 監督は、これが遺作となったジョセフ・L・マンキウィッツ。『イブの総て』が頂点と云われた名匠。遺作で、なんとも粋なシナリオを手に入れたものである
 てなことを考えていたら。面白いことに気がついた。
 アンソニーには双子の兄弟がいて、これがピーター・シェイファー。『アマデウス』『エクウス』『フォロー・ミー』などの芝居の原作者で脚色もしている。
 『フォロー・ミー』は、『第三の男』『落ちた偶像』などの、これまた名監督キャロル・リードの遺作となった。
 兄弟で、40年代から50年代にかけての巨匠二人の遺作に優れたシナリオを提供したことになる。
 『探偵<スルース>』はレンタルショプにあるようだが、『フォロー・ミー』は見かけたことがない。あるのだろうか。いい小品なんだがなあ。ジョン・バリーの音楽で。 

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『団塊ボーイズ』 邦題は秀作

 中年になってしまい、来し方行く末に悩み、青春時代に『イージーライダー』でバイク狂になった人にお勧め。
 『フィールド・オブ・ドーリムズ』でシューレス・ジョーになり、『ハンニバル』でレクター博士にヒドいめにあったレイ・リオッタや、40過ぎでも美しいマリッサ・トメイが懐かしい。

 一番の見せ場は、<『イージーライダー』のあの人>が、観たことあるような役で出てきて、聞いたことあるような台詞をはくことかもしれない。
 この台詞で、ニヤっとしない人は、映画ファンとしてはモグリです。

 遠乗りを映画に例えて、4人がいろんな映画タイトルを出す。誰かがジョン・ブアマン『脱出』を出し、ほかの連中が嫌な顔をするシーンで笑った方、そうとうの映画ファン。

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2008年2月15日 (金)

『ロシュフォールの恋人たち』英語版

 ジャック•ドミー『ロシュフォールの恋人たち』が、3月のフランス映画祭で上映されると云う。
 初めて見たのは、かれこれ30年前、交詢社ホールの自主上映だったか、どこかの名画座だったか。これが英語版で、渋谷のすみやでLPを買ったところ、フランス語に驚いた記憶がある。その後、レンタルショップで借りて鑑賞したのは、すべてフランス語版。
 ジーン・ケリーやジョージ・チャキリスが歌っているはずの英語版が気になって友人に問い合わせたところ、事情が判明した。
 初公開は、東和配給、有楽座でフランス語版の70ミリ!プリントを上映。2番館3番館では35ミリプリントを使った。
 その後、リバイバル。ワーナー配給、東劇では英語版70ミリ。70ミリ映写機がない劇場用に35プリントを作ったそうな。
 その英語版、フランス語版を英訳した単純なものではなく、ジャック・ドミー自身がアメリカの観客用に、編集はそのままで、オリジナルと異なる台詞を書いたとか。
 ところが、オリジナルのファンから総スカンをくい、ドミー監督は封印。
 現在に至るそうです。
 新宿プラザかミラノ座あたりで、フランス語版70ミリをかけてくれないかしら。

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2008年2月10日 (日)

『ヒトラーの贋札』 ハードボイルドの傑作

 第二次大戦中ナチスドイツのザクセンハウゼン強制収容所、イギリスの経済かく乱を狙ったポンド紙幣の贋造プロジェクト。必要な技術を見込まれ贋造にかり出されたユダヤたちの極限状況のドラマ。
 娑婆ではしたたかな贋造屋の視点からプロジェクトの経緯を追うハードボイル。観客は贋造屋の体験を、そばに寄り添って目撃するつくり。それが成功の一因。
 収容された人々の髪型、服装の汚れ具合、傷痕、そのリアルさ。
 イギリス経済が混乱すれば、敗戦が遅れ犠牲者が増えるというジレンマを抱えた正義漢との葛藤、結核が露見すれば処刑される美術学生のサスペンスなど、ドラマとしても大変優れている。 
 回想形式にしたのも巧い。<サバイバルできるか>より、<いかにサバイバルできたか>を描くことでドラマが深くなった。

 ドイツ映画界が自国の恥部をリアルに描ける素晴らしさ。

 『パッチギ! LOVE&PEA CE』など、わずかな例外を除いて、『人間の条件』『戦争と人間』などの時代より、戦争犯罪を描くバイタリティが低下している、どこかの国と大違いである。  

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