洋画

2009年7月31日 (金)

『レスラー』 プロレスが観たくなった! 

 プロレスなんぞというものは長年軽蔑の対象でしかなかった。
 立派な体格の大人が、避ければ避けれられるパンチを受け、大仰にリアクションをしてみせる。みっともない。スポーツの名に値しないプロレスでチャンピオンとは、さらに奇々怪々。まったく興味の向かない世界だった。この映画を観るまでは。

 久しぶりのミック・ロークがオスカー主演賞候補となって有名になったこの作品。まず、プロレス業界(だいぶマイナーらしい)のリアルな描写が、興味津々。
 ホームセンターに<凶器>を買い出しに出かけ、<痛くないのを確認>する。小学校の体育館などレンタル料の安い会場に立つリング、対戦の組み合わせは当日試合直前に決まり、レスラーたちが<段取り>に知恵を絞る。他の組と技がダブルと一方が譲るなんて、爆笑もの。周到なリサーチの賜物ですね。先輩に敬意を持って挨拶に出向いたヒール、「遠慮なしに攻撃してください。私はホッチキスを受けますので」。試合が終わってロッカールーム?に戻って来る先輩をスタンディング・オベーションのレスラーたち。ここらへんで不覚にも少しウルウルきましたね。
 プロレスを嫌悪していた当方のような野暮にも、新しい世界を理解させてくれる。映画のいいところです。プロレスファンの夢を壊す?営業妨害のような映像がテレビでは観られないし。
 
 面白さのポイント、2つ目。本作が優れた中年映画であること。中年映画なんて、カテゴリーがあるかどうか知らないが、『サイドウェイ』のような中年の本音を扱った作品のこと。例えばです。

 余談。名作『サイドウェイ』の版権を日本のプロデューサーが買いリメイクしている。ワインを日本酒に変え、東北あたりの蔵元をめぐるロードムービーにしたかと思いきや、なんとカリフォルニアのワインをめぐる設定をまんま再現するらしい。厚顔無恥。ポール・ジアマッティにカメオ出演を断られたオマケ付き。ポールいわく「ボクのキャリアを貶める」。

 中年を広辞苑でひくと「青年と老年の中間の年頃。四十前後の働き盛りの頃」とある。ええ!、じゃこちらは老年かと思い慌てて大辞林のページをくったら「青年と老年との間の年ごろ。現代では、ふつう40歳代から50歳代にかけてをいう」とあり少し安心した。
 
 
 


 

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2009年6月27日 (土)

『グラン・トリノ』 アメリカも捨てたもんじゃありません

 クリント・イーストウッド監督。優れたシナリオを巧い役者に演じさせ、芝居のよいところだけを奇をてらわずにつなげていく作風は、いいかげんな表現の監督が氾濫する中、大変貴重なものだ。
 しかし、この監督決してテクニックに長けているとも思えないし、リベラルな世界観を持っているわけでもない。正攻法の映画演出を楽しめる、といった程度の気に入り度。感服したのは『ミリオンダラー・ベイビー』だけで、『ミスティックリバー』はミステリーとして楽しめたが、『スペース・カウボーイ』はエエカッコしいでリアリティに欠け、硫黄島2部作は最新テクノロジーのルックだが古くさい戦争映画だし、『チェンジリング』もまあまあ。それで本作もあまり期待していなかった。
 でもこれは傑作です。

 余談。『スペース・カウボーイ』の、イーストウッドそっくりのシカメつらを顔マネして、若い時代のイーストウッドを演じたのは、マギー・スミスとロバート・スティーブンスの息子です。
 マギーは『ミスブロディーの青春』でオスカー受賞、最近ではハリー・ポッターのレギュラー。ロバート・スティーブンスは、ゼフィレッリ『ロミオとジュリエット』の馬上から叱責するベローナの王子様や、ビリー・ワイルダー『シャーロック・ホームズの冒険』のホームズ。地味ですが、名優夫婦です。

 閑話休題。
 まずウォルトの人となりの描写が、役者イーストウッドの独壇場で面白い。無作法な孫や日本車のセールスマンの息子が気に入らず、犬のような唸りを漏らす。『ダーティー・ハリー』の頃からか、嫌悪を顔に貼付けたような表情が、この人の看板のようになった。山田康夫の声が聞えたように感じたら、中年の証拠です。
 隣家の姉弟と親しくなっていく過程も、丹念でストーリーテリングのお手本のよう。少数民族の風俗も興味深い。唾を吐かれても、アメリカ文化が染み付いていたら引き下がるが、新参のアジア人家族にとっては、ヤングギャングを追い払った恩の方が優先する。押し付けがましいお礼のプレゼント作戦が、とまどうウォルトの懐に入るきっかけとしたドラマ設定には唸りました。結局、アジア人への嫌悪が習慣化しているウォルトだが、礼儀正しく対応されると無碍に断れない性格。おそらく、保守的なアメリカ市民に共通する感情なのだろう。
 ウォルトが住む住宅地はすでにアジア系住民が多数派になっているし、銃を振りまわす若いギャングにも手を焼いている。
 ウォルトは、フォードで車を作っていたエンジニア。長年フォードで働いたなら鎌田譿の『自動車絶望工場』のような職場の管理職をやっていたはず、と突っ込むのは野暮というもの。
 そのウォルトは20前後で朝鮮戦争に従軍し勲章を受けている。アジアギャングに「戦争でお前らのような黄色いガキを何人も殺したんだ」と凄むものの、本当の気持ちが違うことは後で分かる。
 復讐を誓う少年に、50年前の武勲が殺人以上のものでない愚行だと告白するウォルト。しかも命令されたわけではなく自発的に殺したことを悩んでいた。私がこの映画を好きになったのは、この戦争観だ。
 59年前の朝鮮戦争ではあるが、<民主主義の国民を共産主義の魔の手から守ってやった>武勲を、後味の悪い殺人だと表明しているのだ。ウォルトが年老いたからか、余命幾ばくもないからか、憎むべき黄色い肌の国民が、実は自分たちと変わらない市民だと気づいたからかは分からない。ただ大スターが主演する映画で、アメリカの聖戦にこんな評価を下した作品はあまりない。
 『ミリオンダラー』の脚本家ポール・ハギスの傑作『告発のとき』では、イラク戦争が両国の子供を死に至らしめているのが実情だと告白したのに近い戦争観が垣間見える。
 そしてなにより素晴しいのは、地味な本作がアメリカでイーストウッド作品として一番ヒットしたこと。それは<民主主義の国民を共産主義の魔の手から守ってやった>武勲を、後味の悪い殺人だという考えに共感したからだ。

 現在外国で起った事件や事故は、リアルタイムで日本にも届く。即時性がテレビニュースの真骨頂だが、事件の本質を捉えているかは別の問題だ。巨大企業がメディアを支えている限り、企業と癒着した政府の価値観が最優先する。
 がんじがらめのニュースでは、アメリカで反戦を訴えれば非国民のレッテルを貼られる風潮がある、一部少数派の人々だけが反戦を訴えていると報道する。それは事実だろうがアメリカのサイレントマジョリティーの届かない声は、戦争をどう考えているのか。ときとして作り物の世界の方が優れた報道性を発揮することがある。『グラン・トリノ』は、そんな希有な映画だと思う。

 一方文句もありますね。
 なぜ、主人公は死に急ぐんですかね。エンターテインメントだからといってもエエカッコし過ぎです。余命が少ないこと、ギャングたちに殺人罪を追わせたいという理由だろうが、もっと現実的な解決策がなかったんですかね。
 最後の主演作なんでしょ。そしたら、出世作『荒野の用心棒』で、ゾンビのように復活し、ジャン・マリア・ボロンテの度肝を抜いた手があるでしょうに。エンジニアなんだから、車のボンネットを細かく刻んで利用しようとは考えなかったのですかね。


 

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2009年4月17日 (金)

『リービング・ラスベガス』 絶品!エリザベス・シュー

 イギリス・エンパイア誌が選んだ『落ち込む映画』堂々の第三位。
 落ち込むのは酒で死に行く男に感情移入するからで、惚れた娼婦のつかの間の恋だと思ってみれば、しみじみとした情感が楽しめる。
 
 ニコラス・ケイジがアルコール依存症者を熱演しオスカーを受賞して話題になったが、中身は女性映画で主演のエリザベス・シューだけでチケットの価値ある作品。オスカーは『デッドマン・ウォーキング』のスーザン・サランドンの持っていかれた。

 シナリオライターのケイジは、仕事を酒で首になり死ぬまで飲む目的でラスベガスを訪れる。途中で遭遇するヤクザの一人に、エド・ローターがチラッと見える。知らないと映画ファンとは云えない役者の一人で、オルドリッチの名作『ロンゲストヤード』がベストでしょうか。

 娼婦サラ(シュー)は買った客のケイジに「思わず本名を名乗った」と嬉しそうに話す。懸命のサービスを断った男が自分と同じ恐ろしいほどの孤独に陥っていることを知る。セックスの仕事の場が、思いもよらず恋人同士のような睡眠に。「いつもは別人になろうと芝居をしているのに、自分に戻れた」と寝顔を見守る女。

 一人はもう嫌と同棲を求めるシュー。初めは断る相手に悲しそうな顔を見せ、相手の優しさに泣きそうになるくらい戸惑ういじらしさ。カジノでいきなりキスする男に、聞こえないほど小さな「愛してるわ」の囁き。カジノの用心棒につばを吐きかけるプロの顔とのコントラストも素晴しい。

 愛する時間が重なると娼婦という仕事がつらくなる。べガスを離れて休日を楽しんだり、食欲のない男に、食べやすかろうと米料理をつくったりして、<主婦したい>女心が強くなるが・・・。

 成瀬作品のような女性映画の佳作です。

 

 


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2009年4月 5日 (日)

『リトル・ミス・サンシャイン』 ままならない人生でも

 国は違えど6人の個性がそれぞれ<今>を感じさせる本作、大いに満足。
 リメイクやCG頼みやらが多い中、やはり<腐ってもアメリカ映画>である。

 小太りで眼鏡なのにミスコンに憧れている7歳の少女、アビゲイル・ブレスリン。子供の身体的なコンプレックスを扱うことも凄いが、ちゃんと説得力ある演じ方ができる子役がいることに驚いた。

 自己啓発本『成功への9つのステッププログラム』を出版し、ひと山当てようとしている父親、グレッグ・キニア。「世の中には勝者と敗者しかいない」「強い思いを抱けば必ず成功する」という固定観念の俗物。唸りましたね、この人物の造形には。サイトでもこの手の怪しげなイベント屋の多いこと! 

 ニーチェを愛読、超人思想からか空軍パイロットになるため、筋トレを欠かさず家族とも筆談ですます、9ヶ月引きこもっている15歳の長男、ポール・ダノ。

 ヘロインで老人ホームを追い出された祖父、アラン・アーキン。「未成年だと罪にならん」、15歳の孫に同年代とのセックスを勧める過激な老人。「ナチと闘った俺が若い頃犯した失敗をするな!」 シャイ過ぎたためか、愛妻家だったのか女遊びは無縁の過去があり、老人になってセックスに開眼したらしい。「老人ホームじゃ、ペニスが乾くヒマがなかった」も強烈。
 
 プルースト研究の第一人者で、若い恋人をライバルにさらわれたゲイ。自殺未遂したあげく学校を首になった伯父に、むっつりしたヒゲ面のスティーブ・カレル。自殺の顛末を7歳の姪に、ちゃんと伝える生真面目な性格で、金と名誉の俗な夢ばかり追いかける義理の兄とは正反対の価値観の持ち主。
 
 タバコが止められず、夕食とデザートをファーストフードと紙皿で済ます、料理ができない母、トニ・コレット。家族の中で一番クセがない役だが、自然な芝居の上手いこと。強烈な個性たちが奇妙な行動をとるなかで、トニのリアリティがあるからこそ、ドラマが自然に受け入れられる。

 伯父がきた夕食の場で、キャラクターをすべて紹介するシナリオ。うまい!
 お話はアビゲイルが出場するミスコンに、ポンコツ車で向かうロードムービー風になっているが、各人の夢がひとつづつ破れていくことでドラマが進む。

 まず、キニアの出版が失敗する。経済的に不安定な家計を支えてきた妻は、イライラを爆発させる。祖父は車の後部から運転席まで近づき、息子キニアの肩を抱いて「結果はどうあれ、チャンスに全力で挑戦したことを誇りに思う。頭が下がる、立派だ」。キテレツな祖父が、思いやりのある人だと分かる。この優しさが息子にも遺伝しているらしい。他の連中も変だが、どことなく品のある雰囲気をただよわせている。祖父が亡くなり、母の涙に長男は「ハグしろ」と妹にメモを見せる。
 「品行が悪くてもいいけど、品性が悪くてはダメだ」と、小津安二郎がどこかで書いていたが、そんな感じ。

 祖父は、孫のアビゲイルに「負け犬とは負けるのが怖くて挑戦しない奴だ」と慰める。アーキンが、少ない出番にもかかわらず、オスカーを獲得したのはこの儲け役に負うところが大きい。さらっと演じているのに、実にうまい。

 祖父の死で、ミスコン参加が絶望的になったとき、キニアは敢然と娘の希望を叶える旅を続ける。それまで、なんだか頼りなかった一家の長が、がぜんパワーを発揮し始める。怪しげな自己啓発本の出版も、経済的に豊かになって家族を幸せにすることが目的なのだ。出版は失敗したが、家族の幸せには、まだまだ方法がある。奇妙な人物の魅力的な側面が浮かび上がる。そして、全員が力を結集しだす。

 色弱だと分かりパニックを起こした長男が、妹のハグだけで我に返り「わがまま言ってゴメンナサイ」。土手に家族を並べ、前景に長男と妹がいるショットも素晴しい。

 波止場で伯父と甥が語り合うシーンは、シナリオライターの知性が光る。伯父のカレルが「プルーストは完全な敗者。ゲイで、仕事もせず20年でたった1作書いただけで報われない恋に生きたが、今じゃシェークスピア以来の偉大な作家。『苦しんだ日々が自分を作った。幸せな時間は自分を成長させなかった』とプルースト。悩みが尽きない高校生活は黄金時代。悩めるお前はバカじゃない」
 冴えなかったゲイが、爽やかな潮風にヒゲをなびかせ、頼もしい哲学者の顔になっている。「空軍パイロットなんか、くそくらえ。自分の力で飛んでやる」、高校生の甥も自分と勇気を取り戻す。

 クライマックスは、ミスコンで小太りの7歳の少女が、どうなるか。家族がひとつになるアイディアが、これまで観たこともないユニークなシーンとなって、観客を納得させる。

 失恋したり、持って生まれた才能が期待したほどでなかったり、人から裏切られたり、思った通りに行かない人生を誰しも生きている。負け犬と思われても、一つの物差しで判断しただけであって、一人の人間には、多くの可能性があり、意外に本人は気づいていない。観終わって、果たして自分や周囲の人々は?、とも思わせてしまう。

 優れた人間観察がないと良質のエンターテインメントになりえない、小品ながらそう痛感した名作です。
 

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2009年3月28日 (土)

『ロシュフォールの恋人たち』よもやま話

 シネテリエで20数年ぶりにスクリーンで観た。フィルム映写ではなく電子デジタル再生だからか、暗部が完全に再現できてないので色に深みがないし、小さなキャパのため個人ミニシアターで鑑賞したよう。喜びも半分くらい。
 DVD発売キャンペーンのための上映らしいが、本来の美しさを再現するのに欠かせないフィルム予算をケチった上、ロードショー料金を取るのは観客に対して失礼。
 デジタルリマスターというのは、パソコンにフィルムを取り込んで(テレシネという作業)修正したもので、本来ならフィルムに焼き直さないと(キネコという作業)いけない。だから、DVDかなにかを使った今回の上映は本当の色彩ではないのですよ。「デジタルリマスター版だからキレイね」なんて思わないように。騙されているのですよ。

 67年にロードショー公開されたのは、有楽座で70㎜プリント。有楽座といっても、マリオンの前のニュートーキョービルにある今の有楽座ではなく、座席数1500人、日比谷にあった旧有楽座。映画用の色彩設計で塗装したロケセットと衣装の鮮やかさ、シネスコの隅々まで展開する群舞、ミシェル・ルグランの傑作スコアとジャック・ドミー(いつからドゥミーなんて変な表記になったんだろう)の気恥ずかしくなるようなロマンチックで粋な歌詞のこの傑作ミュージカル。『ウエストサイド物語』『サウンド・オブ・ミュージック』のように、大きな劇場で初めて真価を発揮できるミュージカル映画である。博多座の座席数が1300だから、この映画の持つ迫力を理解できるでしょう。

 てなことに憤慨していたら、KBCシネマで『アラビアのロレンス』が2500円だそうな。劇場か、配給会社は、まったく客をなんだと思っているのだろう。この傑作は撮影も70㎜で、70㎜プリントを上映できる1000席規模の劇場ならまだわかる。35㎜であの狭さだと、本来の迫力は伝わらない。大きな劇場(せめてキャナルの一番大きな400席)なら冬場でもノドが渇き、休憩時間にコーラが飛ぶように売れる実績があるのだ。不況だと商売がセコくなるのか。デビッド・リーンと先日あちらへ旅立ったモーリス・ジャールは怒っているんだろうな。

 閑話休題。
 30年くらい前名画座で初めて観たのは英語版。直後にサントラを買ったらフランス語で、歌詞が妙に間の抜けた感じだった。その後オリジナルを観て、良さが初めて理解できた。
 70〜80年年代、名画座にもちょくちょくかかっていた。カンヌ映画祭グランプリ『シェルブールの雨傘』の名声に隠れていたが、観た知合いたちは、こちらの方を好きになってしまう。思わず口ずさみたくなるような佳曲ぞろいなのと、すれ違いドラマにテンポよく乗せられて酔わされてしまったからだ。

 ミュージカルの演出で面白いと思ったのが、惹かれ合う恋人同士が同じ旋律で、異なる歌詞を歌うこと。ペランとドヌーブ、ダリューとミシェル・ピコリ。ドラマを素晴しく効果的にした抜群のアイディア。

 この作品の魅力を一言でいうと、その大らかさ。細かいことを気にしない、懐の深さ、融通無碍というか。
 ペランが描いたドヌーブそっくりの油絵を観ても、ドヌーブを知っているカフェの常連は誰だか思い出せないのは何故だろう。
 ジーン・ケリーは楽譜を拾ってすぐ女性とぶつかり、翌日にはドヌーブと、ぶつかってばかり。
 音楽学校を卒業したはずのミシェル・ピコリは金曜日に聞いたドルレアックの曲を、翌日ジーン・ケリーのピアノで聞かされて、何故忘れているのだろう。
 (『サウンンド・オブ・ミュージック』のマリアは、たった一晩でカーテンから7人の子供の服を作ってしまう。)

 チャキリスが回転するホンダのオートバイに乗っているだけのダンスもどきやバスケットボールダンス、子供たちのバレーとコーラスなど、素人たちが演じることをきままに楽しんでいるさまは、港祭りということもあって、まるで博多どんたくだ。
 ジャズや戦前の歌謡曲を駆使し、掛け合いも自然で素晴しいミュージカル時代劇『鴛鴦歌合戦』。ヘタだからこそ味のあるナンバーが楽しい、ウディ・アレン『世界中がアイラブユー』などと通ずるところがある。
  
 ダンスに関して、アメリカ映画のようなプロらしいステップを踏んでいるのは、ジョージ・チャキリス(キャラバンのボス)とクローバー・デール(技術者)の二人組、それぞれの彼女(インド舞踊と中国舞踊の名手らしい)、ジーン・ケリー(作曲家)の5人だけ。
 オープニング、水兵や乳母車の人妻たちも、変なワンパターンの踊りで、バレースクールの先生役のカトリーヌ・ドヌーブは、いっさいプロの踊りを見せない。

 ヒロインの双子、20代前半にしては化粧の濃いこと! お姉ちゃんのドルレアックの方が、芝居が断然上手い。ジーン・ケリーと出会ってドギマギしたり、再会してうっとりする芝居の大仰さが素晴しく面白い。双子姉妹の歌など、時々小津映画のように画面に向かって歌う。観客サービスなのだろうか。これも、なんでもありのこの作品の面白さだ。

 一番かわいいのは、カフェの女給(店員だね)ジョゼット。

 まるで少女マンガから抜け出したような、プロンドでセーラー服のジャック・ペラン。欠点は猫背。兵舎を抜け出して油絵を描く水兵という設定。むっつりした兵隊たちと行進しながら、一人ニコニコ歌うペラン。ここを真剣に観てしまうのは、やはりこの傑作の魔法にかかっているからでしょう。
 ジャック・ペラン。60年代からフランスやイタリア映画に出ているこの二枚目は、1969年ポリティカルミステリーの傑作『Z』をプロデュースしたばかりか、アカデミー外国語映画賞をとり世間を驚かす。当時28歳、天は二物を与えた。その後もコスタ・ガブラスの渋い『戒厳令』などを製作し、77年『ブラック・ホワイト・イン・カラー』で再びオスカー受賞。2004年には『コーラス』がオスカー候補になる。主演の子役が実の息子で8歳、ペラン55歳の時の子供。しかも名前がマクサンス!(『ロシュフォール』のペランの役名)

 ジーン・ケリーとジョージ・チャキリスがフランス語の吹替えを承諾したのも凄い。ただし、この作品、英語版が存在しておりレコードも出ている。そちらでは二人は逆に自分の声で歌っているはずで、英語版を観ているが記憶にない。このバージョン、ジャック・ドミーはフランス語の歌詞をそのまま訳したのではなく、英語でオリジナルと異なる台詞と歌詞を書いたものの、オリジナルのファンから非難を浴び、英語版を封印したと聞いた。アニェス・バルダが生きている間は、公開を許さないでしょう。

 オリジナルで自分の声で歌っているのは、双子のお母さん、ダニエル・ダリューただ一人。
 ダニエル・ダリュー。1917年生まれ、現在91歳。デビューが30年代で現役なのが凄い。同い年のわが山田五十鈴は、もう引退していますからね。美しいがバカっぽく見えることで、白痴美人なんて、今考えるとヒドいいわれようをされた。大ヒット曲『ラストダンスは私に』を歌ったシャンソン歌手でもある。本作でも、ベテラン歌手の貫禄で、じつに気持ち良さそうに歌っている。

 

 

 

 

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2009年2月11日 (水)

『旅立ちの時』 心でつくるルメット

 『十二人の怒れる男』『質屋』『オリエント急行殺人事件』『評決』、どちらかと云うと強面の社会派作品や、ミステリーがお得意なシドニー・ルメットが、こんなかわいい小品を作っていたとは知らなかった。名画座全盛の時代だったら、ふらっと立ち寄った名画座で予備知識なしに観て、首ったけになるようなタイプの魅力ある映画だ。
 ベトナム戦争真っただ中の1971年、ナパーム弾を製造していた大学の研究所を爆破し、警備員を失明させた若夫婦(『普通の人々』の医者ジャド・ハーシュ、よく知らないクリスティン・ラーチ)は、15年間二人の子供を連れて、各地を転々としながら逃亡生活を送り、すっかり中年になっている。17歳の長男は、新しい土地でピアニストの才能を見いだされ恋人もでき、自分の人生を歩み出したくなるが、果たして両親は・・・。
 感受性豊かなリヴァー・フェニックスの青春模様だけでなく、今では放射性廃棄物処理問題など草の根的な市民運動を進めている、両親のドラマも面白い。

 父親は、両親がソ連から移住してきたコミュニストで、ロックはいいがクラシックはブルジョワ的だと云うカタブツ。母親の実家は裕福な家庭で、彼女の母親が全米心霊協会会長なる不思議な設定。ジュリアードを出てピアニストを目指しているうちに、夫と知合いピアニストの方は諦めたが、DNAが長男に受け継がれている。
 FBIから逃げるため、死亡欄から架空の名前を借り、社会保障証などの交付を受けているだろう。仲間から資金を得たり車を交換したりして、素顔を隠した人生を送っている両親だが、子供たちが素直に協力する姿がいじらしい。両親の生真面目さが推測できる。おそらく、20代前半の理想をそのまま追い求める気質を、中年になっても捨てきれないのだろう。
 かつての仲間が訪れ銀行強盗に誘われるが、夫は断る。妻の元カレらしいこの男も、暴力革命なるものをいまだに信じているらしい。一夜の宿を提供した夫が、60年代のヒット曲『オー プリティウーマン』を唄いながら泥酔して帰宅する。

 ♪ 可愛い彼女 通りを歩いてる彼女
   可愛い彼女 知り合いになりたいタイプ
   可愛い彼女 信じられない 君は夢か幻
   君ほどカッコイイ子はそういないよ
 
 いい年した中年親父の、少年のような妻への想いが、可笑しくもホロとっくる。

 リバーがガールフレンドのマーサ・プリンプトンを母親の誕生日に招き、みんなでジェームス・テイラー『ファイアー・アンド・レイン』を合唱する。両親の思い出の曲が、長男の心情と重なる選曲の巧さ。
 ♪ 燃え盛る火、降り注ぐ雨、
   決して曇ることない晴れた日々、
   たった一人の友達さえいない孤独の日々
   そんな明暗の日々があっても、ずっとまた君と会えると思っていた 
 
 80年代のティーンのマーサだが、父親が音楽教師だからだろうか、幅広い範囲の音楽を彼女が知っており、この家族が気に入る資質の持ち主で、古い言葉だがリバーのベター・ハーフ的な感じもする。

 ジャガイモのようなジャド・ハーシュもいいが、美しいクリスティン・ラーチが素晴しい。リバー・フェニックス、マーサ・プリンプトン、みなさん適役、これはキャスティングの勝利ですね。 

 クリスティンが絶縁していた両親との葛藤も丁寧に描いて、風変わりな家族の肖像が爽やかな感動を呼ぶ。
 
 このような家族の繊細な心情を描写するルメットのタッチは、冷静に人物たちの行動をありのまま紹介しようと、あくまでも素朴。奇をてらわず、それぞれの行動を一番理解できやすいポジションから切り取っている
 再会した元カレを拒絶した母親を、隅の階段でじっと聞いていたリバーなど、印象に残るシーンが多い。所々で観られるロングショットも、素晴しい情感を生む。愛犬を置き去りにするショットや、リバーとマーサが砂の崖を下り海辺に出るショット、ジュリアードの実技試験で高く評価されたリバーが、喜びを全身で表すように街角を走り回るショットなどがそれである。
 これは、ひとえにシドニー・ルメットが、いわゆる映画を<頭で作らずハートで作っている>証拠だと思う。いい監督だなあ、なんか惚れ直した感じ。 


 

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2009年1月31日 (土)

『デーヴ』 黒澤『影武者』からのパクリも

 ホワイトハウス周辺に集まったウンカのごとき群衆、オバマ新大統領によせる国民の期待を象徴するような映像だが、なんともはやである。ベトナム戦争を批判したマーチン・ルーサー・キングと、この男を同じように評価するとえらいことになる。肌の色は関係ない。コンドリーサ・ライスは、大変好戦的だった。ナチがユダヤ人を押し込めたゲットーのごときガザに無差別殺人を実行し、女子供800人を含めた市民1200人を殺したイスラエルを支持するなどとほざいているのだから。軍隊をイラクからは撤退するがアフガニスタンには増兵するらしく、ペシャワール会でただ一人残って活動している中村哲代表が心配である。

 てなことで、アイバン・ライトマン監督、1993年製作の大統領ファンタジー。脚本はトム・ハンクスが子供時代のメンタリティーに戻る『ビッグ』のゲイリー・ロス、キャプラテイストも味わえる秀作。

 田舎で小さな派遣会社を経営するケビン・クラインは、現大統領と瓜二つ、そのキャラを生かして自動車販売店のイベントにも出ていたりする。ホワイトハウスはケビンをスカウトし、大統領が多忙なとき本人のダブルにして成功する。ところが、大統領はスタッフの若い女(出始めのローラ・リニー)と浮気中に腹上死。このあたり、クリントンを連想させて面白い。
 大統領の死を公表すれば、副大統領がスライドして大統領に就任する段取りなので、主席補佐官のフランク・ランジェラが猛反対、権力を維持したいためケビンが正式にオールタイムで雇われることになるのだが・・・。

 プロットの前半で、『影武者』からいただいていると思しきシーンが多々見られる。
 まず、初めは臨時雇いで、そのそっくりぶりを試し、本人が死んだために全日制で影武者を勤めることになるいきさつ。『影武者』の閲兵シーン(これ、勝新太郎だったら名場面になっていろうに)が、本作ではホテルの出口から車に乗り込むまでになっており、それぞれ調子にのってやりすぎるのも同じ。
 新しいすみかとなる場所、『影武者』の武田館にあたるホワイトハウスを報道担当補佐官が丁寧に説明する。
 記者会見上で、大統領のクセをスタッフがデーブに教えるが、デーブの方が詳しく、スピーチのそっくりぶりに報道担当補佐官らが瞠目するのは、『影武者』で近習たちを前に信玄のしぐさをしてみせ、近習たちが落涙するシーンのいただきだ。

 やがて、持ち前の正義感から影武者が一人歩きし、大統領夫人を味方につけ、完全雇用法案を通すあたりはキャプラ的な味わいで、実によく出来ている。

 ケビン・クラインが好演、フランク・ランジェラも秀逸。昔ドラキュラを演じていたこの役者、中年になり太ってから、素晴しくよくなった。今年、ニクソンを演じてオスカー主演賞候補になっているのは嬉しい。『天国から来たチャンピオン』『ミッドナイトラン』のチャールズ・グローディンも楽しい。

 ニュース番組のキャスターや記者に本物が登場しており、オリバー・ストーンが狂信的に影武者説を実証しようとし、有名な司会者ラリー・キングにたしなめられるシーンは爆笑もの。

 このようなヒューマニズムをアメリカ大統領に期待できるのは、映画の中だけ。取り巻きに好戦的な連中ばかり集めたオバマの化けの皮が剥がれるのは時間の問題である。スピーチが素敵だなんて思っている人は、一度イスラエルの成り立ちを勉強したほうがいいでしょう。


 

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2008年12月30日 (火)

『群衆』 キャプラが身に滲みる

 バブルの時代、いったい誰が20年後に、アメリカの大恐慌時代のような社会になると、想像できただろう。チャプリン映画(とくに『街の灯』『モダンタイムス』『殺人狂時代』)やウィリアム・ウェルマン『人生の乞食』、『北国の帝王』などの<ふつうの市民が簡単に路頭に迷ってしまう時代>が、日本に訪れるとは。
 労働派遣法が憲法違反であることは当然で、政治も悪いが最悪はマスコミだ。利益のため人間を使い捨てにするメーカーが諸悪の根源であることは自明なのに、トップに責任追求のインタビューを行わない。高い広告費を失いたくないので、新聞テレビは巨悪を逃がす。<Drive Your Dreams> とは、悪い冗談だ。キャノンは、世を救う<観音様>の意味であるのを忘れていないか。
 また、毎日流れるホームレスや派遣切りのニュース、取材しているキャメラマンやディレクター自身が多くの場合派遣社員、もの凄い薄給で働かされているのも事実だ。赤字覚悟の制作費が続き、自殺した制作会社の社長がいる。

 1941年フランク・キャプラ監督の『群衆』(原題:Meet John Doe)。<John Doe>は無名の意味、身元不明の死体を呼んだりする。<John Doe来る!>の意か。
 経営不振になった新聞社が政界の黒幕に乗っ取られ、ベテラン社員たちが首になる。若造が、親のような社員たちに馘首を告げるジェスチャーは、今の時代笑えない。同じく首になった女性記者(バーバラ・スタンウィック)は、腹いせに記事をねつ造する。John Doeを名乗る男が、金がすべての世の中に抗議するため、クリスマスイブの夜、市庁舎から身を投げるという記事だ。
 ところが、この記事、予想外の反響を呼び州知事や市長を慌てさせる。バーバラは、記事を連載にし、John Doeを誰かに演じさせれば、新聞の売り上げが伸びると画策、マイナーリーグを首になりホームレス(この頃はホーボーね)に落ちぶれたゲーリー・クーパーをJohn Doeにでっち上げる。
 やがて、庶民の連帯を呼びかけるJohn Doeの訴えは、全米市民に熱狂的に迎えられるが・・・。

 マスコミを金の力で支配する政界の黒幕は、時代のヒーローが出てくれば票田獲得のため便乗し、不利になれば濡れ衣を着せ、大衆を煽動しヒーローを叩く。企業、政治家、マスコミの関係が恐ろしいほど、今の日本と変わらない。
 一方庶民の側は、「隣人を大切にしよう」と云うJohn Doeの訴えをまともに受け止め、生活は苦しくとも地域社会の人々がお互い思いやりを持てば、苦境を乗り切れることに気づいてくる。この当たりは山本周五郎『ちゃん』『かあちゃん』みたいである。

 本作は『オペラハット』「スミス都へ行く』『素晴しき哉、人生!』のキャプラ作品と同じく、資本主義がファシズムに行き着いた社会の実相を見事に描いている。60年以上前の映画だが大変面白い、でも作品の完成度は二の次。描かれている社会が2008年年末の日本そのまま、現在こそ必見の名作だと思う。

 「民衆を見くびるなよ(原語はわかりません)」と、政界の大物に投げつけるラストの市民の捨て台詞、当時の観客は喝采したんだろうなあ。

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2008年11月26日 (水)

『リダクティッド 真実の価値』 デ・パルマの告発状

 これはまたキテレツな作品である。既存の映画に似たような作風が見つからない。未見だが、監視カメラの映像だけで描いたジョージ・ルーカスの短編『THX1138』(学生時代の作品でロバート・デュバルは出ていない)に近いのかしら。まさに実験作である。全編をワンショットで繋いだ(ように見せた)ヒッチコックの『ロープ』、ハードボイルドの一人称を馬鹿正直に捉え、カメラアイを全編主人公の見た眼として描いた、ロバート・モンゴメリー『湖中の女』などと並ぶようなユニークさである。
 これを普通の劇映画のつもりで観ると駄作にしか思えないが、ブライアン・デ・パルマと云う優れた映画監督の本質が理解できれば、この問題作に込められた巧妙な狙いが見えてくる。

 ブライアン・デ・パルマ、1940年生まれ。コッポラやスコセッシと同世代。若いころリアルタイムで封切りを楽しみにして観た『キャリー』『愛のメモリー』『殺しのドレス』『ミッドナイトクロス』が大好きだ。なにより、ヒッチコック先生にならって、言葉を当てにしない映像の構成によるサスペンス技法が素晴しい。『キャリー』のプロムナイトでロープの先をカメラが蜿々たどっていくと臓物入りのバケツが見えるショット。『殺しのドレス』の美術館でアンジー・ディッキンソンを男が追いかけるカットバック。いかにも映画少年がそのまま監督になったような作風は、若いファンの心を掴んだ。
 テクニシャンのデ・パルマであるが、華麗なテクニックに溺れず、物語を分かり易く伝えていく映画監督の本道を決して踏み外さない。遊びながらも抑制をきかせることのできる大人の監督なのだ。
 だからこそ、大作の監督としてプロデューサーの信頼を得てきた。『アンタッチャブル』しかり『スカーフェイス』しかりで、デビッド・マメットやオリバー・ストーンの名脚本を得て、2作とも堂々たる名作に作り上げている。
 そして、デ・パルマがほかの売れっ子監督と大きく異なるのは、戦争をちゃんと市民の立場から評価できる健全な歴史観を持っていること。<戦争>なるものが市民同士の殺し合いでしかなく、<国家のために戦場で戦う>ことの嘘を見抜いている。コッポラやイーストウッド、オリバー・ストーンでさえ持っていない資質である。

 映画表現の達人であり、正しい戦争観を持っているデ・パルマのこの新作。きわめてユニークなのはキャメラアイのありかた。通常の映画は、原則としてキャメラの前で演じることによって成り立つ。キャメラは存在しない視点で、コメディでもないかぎり無視される。ところが、本作ではこの約束がない。すべての映像が2008年のアメリカに存在するさまざまな映像を通して描かれる。
 兵士の一人がUSC(南カリフォルニア大学:ルーカスら有名映画監督を輩出)の映画学科に進むために撮影するビデオ映像をはじめ、アメリカやイラク、アラブ圏のニュース、監視カメラ映像、フランスの映画監督によるドキュメンタリー、ゲリラのホームページの動画などを通してストーリーが語られる。映画が始まって15分くらいで<お約束>は見当がついたが、事実描写よりイメージ優先のようなフランス製ドキュメンタリーで、ヘンデル(かの『バリーリンドン』でも有名な)が流れてきたときは、正直さすがのデ・パルマも耄碌したのかと思った。しかし、この監督一筋縄ではいかない。
 音楽はラストの被害者たちのスチル写真だけ。ここではじめた劇映画としての音楽がレクイエムのように流れ、エンドタイトルがサイレントになる。黒澤『生きものの記録』みたいである。
 観終わって、監督はこの大変奇妙な映画をいったい<誰のために作ったのか>に考えが及んだ時、作り手の真意に気づき大いに驚いた。唸ってしまった。
 本作は完全にアメリカ国民だけに向けて作られた、外国人を初めらから計算に入れないローカルムービーである。アメリカで日常眼にする映像メディアで作られているから。通常のドラマ形式にしなかったのは、『カジュアリティーズ』の二番煎じを避けたというより、観客の心理を計算にいれて、観終わって映画館を出て日常生活に戻ったとき、観客にイラク情勢の現実のニュースが、<リダクティッド(修正)>されたものであることを思い出させ、報道されない現実を想像させるためだ。アメリカ国内のニュースがアメリカに有利な世界観でしか伝えていないことを気づかせるためなのである。映画館の中で、フィクションとして完結するより、ボディブローのように、じわじわと生活の中で真実に眼を向けさせる手法を選んだ訳だ。
 デ・パルマは、映画表現の形式さえもかなぐり捨てて、映画と云うマスメディアの持つ特性を生かして、アメリカの観客に<テロとの戦いが実は市民の虐殺でしかない>イラク侵略の惨状、悪行を告発しているのである。

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2008年10月19日 (日)

『シャーロック・ホームズの素敵な挑戦』  アディクション(依存症)映画の傑作

 多忙な時間をやりくりしたのに、映画館でツマラナイ作品を立て続けに観てしまうと、足を運ぶのがおっくうになる。さりとて、レンタルショップに行っても、今観たいレアな作品があまりない。しようがないので、録画したVHSに、なにかめぼしいものはないかと探してみたらありました。『シャーロック・ホームズの素敵な挑戦』、1976年製作。この作品、ホームズものに精通しているシャーロキアンや、長く映画を観てきたファンが喜ぶような極めて趣味性の強い作風で知られる。
 久しぶりに観たが、いやはや凄いものである。これまで感じていた<粋な映画>と云うイメージにおさまらない深さを感じた。アカデミー賞の脚色部門でノミネートされたわけである。

 原作は、ホームズもののパスティッシュ、ニコラス・メイヤー『7%の溶液』、ホームズが溺れていたコカインを意味している。コナン・ドイルがホームズものを書いたのは、この映画のような事実!があったから、本歌から逆算したら映画のような背景が想像できる、と云うお遊び精神から発想されている。
 天才的な推理力と強い正義感、ヴァイオリンやフェンシングの名手にして抜群の行動力で難事件を解決するクールなイメージのホームズを、コカイン中毒で被害妄想に陥っているヨレヨレの姿で登場させ、手に余ったワトソンが、ウィーンのジークムント・フロイトに治療を依頼し、かの地で事件に巻き込まれるというお話。あれだけ数々の難しい事件を背負った生活なら、天才でも少しぐらい精神に変調をきたしていたのでは、と云う着想が抜群。しかも、かのモリアティー教授が貧相な老人で、身に覚えのないことでホームズのストーカー被害に遭っているのだから笑える。
 シャーロキアンたちが、ほくそ笑むクスグリが織り込まれているようだが、当方は『四つの署名』『赤毛連盟』『バスカビル家の犬』『まだらの紐』、モリアティー教授の存在くらいしか知らない。

 スタッフとキャストも凄い。
 撮影オズワルド・モリス、美術ケン・アダム、音楽ジョン・アディソン。さらにオリヴィエとくれば、当時のイギリス映画界屈指の名人たちと云うより、ファンなら72年の『探偵<スルース>』を思い出さない方がおかしい。オズワルド・モリスのクラシカルな色調のルック、キューブリックのリアリズムに応えた『バリー・リンドン』のケン・アダム、『トム・ジョーンズ』や『探偵<スルース>』のクラシカルかつサスペンスフル、しかもコミカルなスコアが楽しいジョン・アディソン。
 監督はハーバート・ロス。振付師から監督になったロスは、粒よりの役者を揃え、うまい芝居を存分に引き出すオーソドックスな演出で、<70年代から80年代のウィリアム・ワイラー>のごとき存在だった。ニール・サイモン作品を多く手がけそのどれもが面白く、『愛と喝采の日々』『マグノリアの花たち』のような名作もある。
 
 キャスティングのトップがフロイト役のアラン・アーキンだから、当時でも配役の渋さは極まったようなもの。今年『リトル・ミス・サンシャイン』でやっと助演オスカーをとったこの人、代表作はキャリアの早い時期に集中している。『アメリカ上陸作戦』でソ連兵を、『愛すれど心さびしく』で聾唖の青年を、『暗くなるまで待って』ではサスペンス映画史上に残る殺人鬼を演じた。鼻にかかったような声色が印象的で、なにを演じても自然で実に巧い役者だ。この作品では、学会から認められず人種差別とも戦いながら、尊敬するホームズの治療に当たる、よき父親・夫で、心優しく行動的な名医を好演している。
 ワトソンにはロバート・デュバル。云わずと知れた名探偵を支える助手役、コルレオーネ家のコンシリオーリを長く勤めた?キャリアに相応しい。カントリー&ウェスタンの歌手役が素晴しい『テンダー・マーシー』(オスカー主演賞受賞)では、歌うばかりか何曲か作詞作曲までやってのけた芸達者。さぞご本人も大人しい性格かと思いきや、マイケル・ムーアがオスカーの授賞式でブッシュを批判した時、「ムーアをブートキャンプ(新兵訓練所)へぶちこんでやれ!」と発言、どちらかと云うとキルゴア大佐(『地獄の黙示録』)のメンタリティに近いのかもしれない。
 ホームズのニコール・ウィリアムソン、『エクスカリバー』くらいしか知らない。友人から教えたもらったのは、カメオ出演した『グッバイガール』。オフ・ブロードウェイの売れない役者リチャード・ドレイファスを映画に勧誘にくるハリウッドの映画監督オリバー・フライ役。
 ヒロインが、古風な顔立ちのバネッサ・レッドグレーブ、翌年『ジュリア』でオスカー助演賞受賞している。尾行するスパイに『キャバレー』で、これまたオスカー助演賞受賞のジョエル・グレイ。『レモ/第一の挑戦』で「ファーストフードとは、<早く死ぬ食べ物>の意味なのじゃよ」なんて説教するコリアン武道のお師匠さんを演じた。モリアティー教授にローレンス・オリヴィエ、ワトソン夫人にはサマンサ『コレクター』エッガーの贅沢さ。
 つまり、観客動員に強くアピールする面々ではないが、クオリティの高い芝居ができる連中ばかりを集め、シェークスピアものでも製作するような大真面目な構えで、このシャレたお話を作った訳である。

 それで、ホームズものや映画に詳しくないと面白くないのかと云えば、とんでもない。
 フロイト博士の部屋を見回して推理し、博士の生い立ちや人となりなどをズバリ言い当てたり、コカイン中毒で死にかけていたホームズが回復し、本来の自分を取り戻して事件を追いかけ、悪党と立ち回りまで演じて解決していく探偵映画の醍醐味を味わえる。それどころか、人間ドラマとしても感動的なストーリーになっている。以前はよく分からなかった<感動的な後味>の理由が、今回観て初めて理解できた。
 ホームズがコカイン中毒から回復していくプロセスが、21世紀の現在も通用する依存症の治療法と同じで、アルコールに限らない依存症の本質を正確に捉えた見識の高さに裏打ちされた物語であるからだ。

 ホームズに呼び出されたワトソンは、かの有名なベーカー街のアパートを訪ねる。食事もろくにとらず部屋に引きこもる名探偵は、友人の顔が信じられなくなっており、モリアティー教授が悪事を続け、命を狙われていると、ひどい不安神経症のホームズ。引き出し一杯のコカインを確認して少し落ち着きを取り戻す。この作品では、このような依存症者を見事に表現する描写が随所に出てくる。
 20年ほど前、テレビコマーシャルで、工藤夕貴が冷蔵庫に並んだ梅酒を前に「こうなっていると安心するの」とあったが、あれと同じ。酒を広告するために依存症者の心理状態をもってくるとは。
 ホームズを迎えたフロイト、「あなたのお兄様や友人は心から心配している。素晴しい頭脳と強い正義感のあなたを尊敬していたのに失望した。自分ではコカイン依存症にかかっていることを知っているくせに、忠実なワトソンを非難している」、本来のシャーロックホームズではない、と話すフロイトにホームズは認めざるを得ない。ここで、依存症治療のスタート地点である<病識を得る>、つまり患者本人が「自分は依存症と云う病にかかっている」ことを自覚する段階にたどり着く。
 「なかなかコカインから抜け出せない」と訴えるホームズに、「わたしはやりとげた。時間もかかるし苦しいが必ずできる」とフロイト。治療者ではなく、立ち直った依存症者の先輩としての顔も見せることによって希望を与える。
 体から薬物が一定濃度以下になると、体は薬物を補充させたくイライラや苦痛を覚える禁断症状・退薬症候が出てくる。ホームズの退薬症候に、フロイトが懐中時計を目の前で振り子にして催眠状態に導くのも面白い。
 眠らせておいて、2人の医師はホームズの荷物にコカインを探す。水を入れた瓶をダミーと見破り、鞄の裏底のスペースに大量のコカインを見つける。薬物を手に入れるためには、悪魔的と表現してよいほど知恵をめぐらせる依存症者の性(さが)がよく出ている。
 体から薬物を抜き取るのが次のステップで、幻聴幻想の中に『赤毛連盟』『バスカビル家の犬』『まだらの紐』が出てくるのがご愛嬌。薬物濃度が低くなると死亡する危険もあり、煩悶する姿は凄まじく英雄的でさえあるとは、ワトソンの医師ならではの感想。
 フロイトはワトソンに「ホームズのコカインは結果であって原因ではない」。アルコール依存症の場合も、酒が原因でさまざまな問題を引き起こすと思われがちだが、飲酒は結果であって飲まざるを得ない心理こそが原因である、そこを解決しないと依存の問題は終わらないことを説明している。
 体から薬物が出たホームズは、ワトソンにこれまでの非礼を詫びる。気持ちも落ち着き、次は体力をつけるために栄養を補給しなければならない。それまでコカイン中心に生活が回っていたので、生活から大きな関心事がなくなり食欲もわかず鬱状態になることもちゃんと表現している。
 依存症者が本当に大変なのはこれからで、一生再び薬物を摂取しない生活を送らなければならないからだ。
 先のことを考えては気力がなくなるので、薬物をとらない一日一日を重ねるしかない。そこで、アルコール依存症者(アル症)の場合、発案されたのが1930年代にアメリカで始まったAA(アルコホリック・アノ二マス)、アル症たちが集まって酒を飲まない日々を続けていくための自助グループである。
 フロイトは、コカイン依存から立ち直った歌姫ローラ・デブローが自殺未遂したことを知るや、ホームズを往診に同行させる。ホームズの心の空虚さを依存症仲間と会わせ、同じ悩みを共有させることで立ち直りの手段とするのは自助グループの狙いと重なる。デブロー嬢が、自らコカインを再摂取したのではなく、何者かに注射され自殺しようとした設定も巧い。再びコカインに溺れる生活ではなく、退薬症候を伴う苦しい身体依存からの脱却に再度挑戦するデブロー、ホームズは感動し事件に立ち向かう意欲を持ち始める。
 事件解決後、催眠状態からホームズがコカインに耽溺したきっけの謎や女性不信のが解ける。フロイトが名探偵となって、天下のシャーロック・ホームズの人生の秘密を解き明かすパスティッシュの名場面となっている。
 ラストは、コカイン依存と戦った依存症者同士のホームズとヒロインの旅立ちで、ロマンスの始まりを暗示して終わる。

 一見古色蒼然とした探偵ミステリーを装いながら、依存症で自分を見失った中年男がトラウマの実態を知り、女性不信を克服して人生の再出発に歩き出すと云う、きわめて現代的なテーマの人間ドラマなのである。だからこそ、お遊び色の濃い物語にもかかわらず、観るものにストーリーの面白さ以上の感慨をもたらしているのではと思う。

 薬物依存を扱った映画は、アル症なら『失われた週末』『酒とバラの日々』『男と女が愛する時』『リービング・ラスベガス』などが思い当たるが、依存症の本質と回復へのステップを正しく描いていることにおいてこの作品には及ばない。依存症映画の傑作でもあるのですね。
 

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